茨城県には細かい技法はさておいて、大きさで勝負!というような力技のお城が結構多くあるのですが、この石塚城も規模雄大、額田城を髣髴とさせる大型中世城郭です。
城主の石塚氏は佐竹氏十代にあたる義篤の子、次郎宗義に端を発する佐竹氏の一族で、その成立は小場城主の小場氏、大山城主の大山氏とほぼ同時期、佐竹氏の支配が那珂川流域まで広がってきた時期に集中的に配置された庶子家のひとつです。この同格の庶子家が戦国末期、石塚氏の姫をめぐって奇妙な抗争を繰り広げます。
その時期については天正三(1575)年とも天正四(1576)年ごろと伝えられますが、諸説あってはっきりわかりません。事件の概要は大山城主・大山義則と小場城主・小場義宗の間で何らかの抗争があり、「頓化原」なる場所で遂に両軍激突するに及んだものの、最終的には佐竹義重の斡旋で和睦した、というもの。この発端となったのは那珂川の用水争いとも、粟野という土地が双方の領地が複雑に入り組んでいて、小場氏がちょくちょく境界を越えて鷹狩りをしていたことに大山氏が立腹したという話、そしてこの石塚城主・石塚義国の息女、瑠璃姫をめぐる争いであったともいわれます。この瑠璃姫、この手の話によくあるように絶世の美女であったらしく、小場義宗と大山義則はあの手この手で歓心を買おうと競い合っていました。しかし石塚義国は結局瑠璃姫を小場氏へ嫁がせます。これがもとで大山氏と小場氏は遺恨を抱きあうようになり、領地争いなどのいざこざもあってお互いに心の中でどす黒い恨みの炎を燃やしつつも、表面的なお付き合いだけは以前どおり続けていました。
小場義宗と瑠璃姫の間に嫡子・朝日丸が誕生したとき、大山氏は儀礼的に小田部孫九郎を祝儀の使者に送ります。しかし朝日丸はまもなく病気にかかり夭折、この弔問の使者にまたまた大山氏は小田部孫九郎を遣わせます。ところが小場氏は大山氏の使者の名前が孫九郎だったことから「孫を食らう」(もしくは「孫苦労」)とは縁起でも無い、これは大山氏のイヤガラセである、として大山城を攻めんと、石塚氏に援軍を求めます。まあここら辺の話は100%後世の潤色でしょうが、「まごくろう」ねぇ、よくもまあこんな面白おかしい脚本を書くもんだ、と感心します。小場氏の攻撃を察知した大山氏は機先を制して石塚城を包囲、しかし背後より小場勢が襲い掛かって大山勢は敗退、両軍は頓化原なる場所で遂に正面から激突します。これに憂慮した佐竹義重は和睦を斡旋、両者はやっと鉾を収めてそれぞれの居城に帰っていった云々。
これらの話は地元の寺に伝わる後世の書「頓化原合戦記」などに記されているものということで、話半分のそのまた半分さらに八掛けくらいで聞いた方がいい話なんでしょうが、どうやら大山・小場両氏の間に確執が合ったらしいことは確実なようです。しかしまあ一族家臣間の争いに「鬼義重」佐竹義重は何をやってたんですかね。小場義宗は義重の実弟でもあり、軍事衝突に至る以前にもっと宗家が介入して積極的に解決すべき問題だったんじゃないですかね。それが戦国大名の統制力ってもんじゃないのかなあ。不可解な事件だなあ。
この合戦における石塚氏は小場氏方に味方しているように書かれていますが、このあたりもかなり怪しいところです。そもそも「瑠璃姫」という存在が胡散臭いし、小場義宗は小場氏の息女との婚姻によって小場氏を嗣いでいるのだから、姫をめぐって争う必要なんてのも無いわけです。ところが話がややこしいことに、石塚義国がこの合戦で戦功のあった家人の桐原氏に対して官途を与える、などという官途状まであり、石塚氏も何らかの関与はあったらしいとも考えられます。この件に関しては石塚氏が上位権力(=佐竹宗家)の許しを得ずに官途など与える権利があったのかどうか、という事も疑問です。さらにこの合戦に関連して、「昨日十九日の小場合戦において乗馬が疵を受けたのは御忠節の顕れ」などという年未詳十二月九日付け、大山氏宛ての書状が二通あり、「義頼」の署名があります。この義頼を「常北町史」「桂村史」などでは「里見義頼カ」としていますが、里見義頼は天正五(1577)年までは「義継」を名乗っていたはずだし、里見義頼が佐竹氏の一族家臣に過ぎない大山氏に直々に書状を出すというのも格が違いすぎて不自然な気がします。内容も相手の家内のゴタゴタであり、里見義頼に「御忠節の顕れ」なんて口を挟まれる筋合いの話じゃないし、この「義頼」は里見義頼ではないか、もしくは年次が異なっているのか、はたまたこの文書って・・・と疑問が疑問を呼んでしまいます。