謎多き「頓化原合戦」の発端となった

石塚城

いしづかじょう Ishiduka-Jo

別名:

茨城県東茨城郡城里町石塚

城の種別

平山城

築城時期

康安二(1362)年

築城者

石塚義宗」

主要城主

石塚氏、東氏

遺構

曲輪、空堀、土塁、土橋ほか

二の曲輪の土橋<<2005年01月29日>>

歴史

佐竹氏十代・義篤が康安二(1362)年正月七日の譲状で三男・宗義に石塚の地を分知し、宗義は石塚氏を称して石塚城を築城したという。以後代々石塚氏の居城となった。 

天正四(1576)年ごろには佐竹義重の実弟である小場城主・小場義宗が石塚城主の石塚義国とともに大山城主・大山義則氏との領地紛争から頓化原で戦い、佐竹義重の仲介で和睦したという(頓化原合戦)が、年月や事実関係は不明な点が多い。

文禄四(1595)年、佐竹氏の家臣団の知行再編に伴い石塚義辰は片野城に移され、石塚周辺は佐竹宗家の蔵入地となり、石塚城には佐竹東家の東義久、義堅が城代として置かれたが、慶長七(1602)年の佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となった。

茨城県には細かい技法はさておいて、大きさで勝負!というような力技のお城が結構多くあるのですが、この石塚城も規模雄大、額田城を髣髴とさせる大型中世城郭です。

城主の石塚氏は佐竹氏十代にあたる義篤の子、次郎宗義に端を発する佐竹氏の一族で、その成立は小場城主の小場氏、大山城主の大山氏とほぼ同時期、佐竹氏の支配が那珂川流域まで広がってきた時期に集中的に配置された庶子家のひとつです。この同格の庶子家が戦国末期、石塚氏の姫をめぐって奇妙な抗争を繰り広げます。

その時期については天正三(1575)年とも天正四(1576)年ごろと伝えられますが、諸説あってはっきりわかりません。事件の概要は大山城主・大山義則と小場城主・小場義宗の間で何らかの抗争があり、「頓化原」なる場所で遂に両軍激突するに及んだものの、最終的には佐竹義重の斡旋で和睦した、というもの。この発端となったのは那珂川の用水争いとも、粟野という土地が双方の領地が複雑に入り組んでいて、小場氏がちょくちょく境界を越えて鷹狩りをしていたことに大山氏が立腹したという話、そしてこの石塚城主・石塚義国の息女、瑠璃姫をめぐる争いであったともいわれます。この瑠璃姫、この手の話によくあるように絶世の美女であったらしく、小場義宗と大山義則はあの手この手で歓心を買おうと競い合っていました。しかし石塚義国は結局瑠璃姫を小場氏へ嫁がせます。これがもとで大山氏と小場氏は遺恨を抱きあうようになり、領地争いなどのいざこざもあってお互いに心の中でどす黒い恨みの炎を燃やしつつも、表面的なお付き合いだけは以前どおり続けていました。

小場義宗と瑠璃姫の間に嫡子・朝日丸が誕生したとき、大山氏は儀礼的に小田部孫九郎を祝儀の使者に送ります。しかし朝日丸はまもなく病気にかかり夭折、この弔問の使者にまたまた大山氏は小田部孫九郎を遣わせます。ところが小場氏は大山氏の使者の名前が孫九郎だったことから「孫を食らう」(もしくは「孫苦労」)とは縁起でも無い、これは大山氏のイヤガラセである、として大山城を攻めんと、石塚氏に援軍を求めます。まあここら辺の話は100%後世の潤色でしょうが、「まごくろう」ねぇ、よくもまあこんな面白おかしい脚本を書くもんだ、と感心します。小場氏の攻撃を察知した大山氏は機先を制して石塚城を包囲、しかし背後より小場勢が襲い掛かって大山勢は敗退、両軍は頓化原なる場所で遂に正面から激突します。これに憂慮した佐竹義重は和睦を斡旋、両者はやっと鉾を収めてそれぞれの居城に帰っていった云々。

これらの話は地元の寺に伝わる後世の書「頓化原合戦記」などに記されているものということで、話半分のそのまた半分さらに八掛けくらいで聞いた方がいい話なんでしょうが、どうやら大山・小場両氏の間に確執が合ったらしいことは確実なようです。しかしまあ一族家臣間の争いに「鬼義重」佐竹義重は何をやってたんですかね。小場義宗は義重の実弟でもあり、軍事衝突に至る以前にもっと宗家が介入して積極的に解決すべき問題だったんじゃないですかね。それが戦国大名の統制力ってもんじゃないのかなあ。不可解な事件だなあ。

この合戦における石塚氏は小場氏方に味方しているように書かれていますが、このあたりもかなり怪しいところです。そもそも「瑠璃姫」という存在が胡散臭いし、小場義宗は小場氏の息女との婚姻によって小場氏を嗣いでいるのだから、姫をめぐって争う必要なんてのも無いわけです。ところが話がややこしいことに、石塚義国がこの合戦で戦功のあった家人の桐原氏に対して官途を与える、などという官途状まであり、石塚氏も何らかの関与はあったらしいとも考えられます。この件に関しては石塚氏が上位権力(=佐竹宗家)の許しを得ずに官途など与える権利があったのかどうか、という事も疑問です。さらにこの合戦に関連して、「昨日十九日の小場合戦において乗馬が疵を受けたのは御忠節の顕れ」などという年未詳十二月九日付け、大山氏宛ての書状が二通あり、「義頼」の署名があります。この義頼を「常北町史」「桂村史」などでは「里見義頼」としていますが、里見義頼は天正五(1577)年までは「義継」を名乗っていたはずだし、里見義頼が佐竹氏の一族家臣に過ぎない大山氏に直々に書状を出すというのも格が違いすぎて不自然な気がします。内容も相手の家内のゴタゴタであり、里見義頼に「御忠節の顕れ」なんて口を挟まれる筋合いの話じゃないし、この「義頼」は里見義頼ではないか、もしくは年次が異なっているのか、はたまたこの文書って・・・と疑問が疑問を呼んでしまいます。

石塚城平面図(左)、鳥瞰図(右)

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この謎の合戦、頓化原合戦のことはさて置くとして、石塚城そのものは規模も大きく、なかなか見ごたえがあります。同格の小場氏や大山氏のお城よりもはるかに壮大です。現在は国道123号が城内を貫通しており、急カーブが連続して一気に台地を上り下りしていますが、このカーブの途中でも空堀の一部が崖の上に見えています(運転者は前を見て!)。この国道によって、あるいは市街地や宅地によって遺構は破壊もされているのですが、もともとこのお城は茂木街道を縄張りの中に取り込んだお城であったということで、現在の国道の姿もまあ石塚城の交通の要衝ぶりをしっかり証明しているとも言えます。佐竹氏の城館のうち、こうした街道を取り込んだ関所的機能を持つ城というのは山方城などごく少数しかありませんので、その点でも貴重といえます。主郭の周囲の空堀などは多少ヤブにはなっているものの見事なもので、台地端の斜面には佐竹氏系城館の定番ともいえる横堀もしっかり残っています。外郭部はかなり破壊されていますが、それでも幾つもの曲輪が台地上に続いており、この点でも額田城の縄張りを思い出してしまいます。なお国道は交通量が多いので気をつけましょう。車はY曲輪の墓地脇あたりに置くのが無難かと思います。

[2006.10.28]

比高25mほどの台地端に築かれた石塚城。城内を国道123号が分断していますが、主要部は意外とよく残っています。 VとXの間の堀底を通って主郭へ向かいます。この堀底道はかつての茂木街道であったそうです。
主郭の周りの堀はさすがに雄大、多少ヤブではありますが見ごたえは十分。 主郭内もちょっとヤブになってしまっていますが、まあ歩けないほどではないです。
主郭には断続的に土塁があります。 主郭の北側、斜面の中腹には佐竹系城郭の定番である横堀もしっかりと。
主郭北西の一段下の腰曲輪には井戸のような湧水があります。 TとUの間は空堀から繋がる自然の大きな谷津になっており、やはり湧水があるようで底は湿っています。
XとYの間あたりに解説板があります。この奥へ進んでいくとU曲輪の土橋に到ります。 U曲輪虎口の土橋。
U曲輪はT曲輪と同じくらいの広さで、どちらを主郭と見るべきか一瞬迷います。各曲輪の位置関係から見て、こちらは二ノ丸に相当する曲輪と解釈しました。 U曲輪の周囲の堀。こちらは突入不可能なほどのヤブになってしまっていました・・・。
U曲輪北側にもしっかり横堀があります。西側寄りには土橋もしっかりありました。 かつて満石寺があったというY曲輪。石塚氏の祈願所であったそうですが、近世に那珂西城跡の宝憧院に合併させられ廃寺となっています。
Y曲輪東側の堀。 X曲輪は南側が破壊されていますが、概ね形を追うことができます。
X曲輪南側の堀。部分的に埋められていたり、畑や道路になっていて分かりづらいですが、かろうじてその痕跡を追うことが可能です。 外郭の「蔵前」脇の堀。埋められていますがこちらも辛うじて判別可能。この小字名の「蔵」は近世の郷倉のことで、中世期の地名ではないとのことです。
国道の西側にも堀があります。こちらは土塁、土橋がほぼ完全な形で残っています。 W曲輪脇には桜田門外の変に参加した水戸浪士・大畠誠三郎の墓があります。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」IC車15分、「水戸北スマート」IC車10分(下り線のみ)。

周辺地情報

小場城大山城が関連が深い。南北朝期の激戦地、瓜連城なども見所があります。。

関連サイト

 

 
参考文献

「大宮町史」

「桂村史」

「常北町史」

「源姓小場氏の系譜」(小場源一郎)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ  北緯36度付近の中世城郭

埋もれた古城 表紙 上へ