高久城の高久氏は例によって佐竹氏の一門にあたる一族ですが、どうにも歴代歴代、佐竹宗家とはソリが合わない様で何度も反抗を繰り返しています。高久義本・義景父子は「山入一揆」にも加担し、大山城主の大山義道に攻められ一時は没落しています。
そして天文四(1535)年には高久義貞が「部垂義元の乱」に加担して挙兵し佐竹義篤に攻められて居城を捨てて逃亡、のちに降伏して赦されます。そしてその後、高久氏に悲劇が訪れます。
天文十二(1542)年、佐竹義篤は奥州伊達氏の内紛に介入します。これは越後守護・上杉定実への養子縁組にあたって伊達稙宗と晴宗の父子の意見の食い違いがもとで家中を二分する内紛に発展したものですが、この時期佐竹義篤は奥州南郷への攻勢を強めており、奥州で勢力を持つ伊達氏の内紛に介入することは奥州進出の絶好のチャンス、と写ったのでしょう。この戦いに先年義篤に降伏して赦された高久義貞とその父義時、子の宮寿丸という高久三代が参陣します。孫まで三代揃ってというのは微笑ましい光景のようですが、ここに悲劇の種が潜んでいました。
佐竹義篤は晴宗に味方し、稙宗を支援する相馬顕胤と七月九日、奥州久保田(郡山市)で戦い大敗、撤退途上の奥州白川の関山において再び相馬軍の追撃を受け、石塚城主・石塚義衡や天神林義兼らが戦死、そして高久氏もせっかく参陣した義時・義貞・宮寿丸の高久三代も揃って討ち死にし、お家は断絶、高久城も廃城となってしまいます。高久氏は前述のとおり部垂の乱に加担して宗家に刃を向けたにもかかわらず、義篤によって赦されています。「この恩に身命を賭して報いん」と思ったかどうかわかりませんが、文字通り馬前に死すという結末、それも三代揃って討ち死にという、なんとも痛ましい結末に胸が痛む思いがします。
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高久城平面図
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この時期、佐竹義篤は下野那須氏の烏山城の攻撃や奥州南郷での白川結城氏との領土争い、そして伊達氏天分の内訌への介入など積極的な外征を進めており、高久氏らはその犠牲になったようなものでもあります。越後生まれのソレガシとしては、越後守護の養子迎え入れ構想(これにはソレガシの実家のすぐそばの鳥坂城主・中条藤資が深く関与している)が原因で伊達氏に内訌を引き起こし、それが巡りめぐって高久氏に悲劇をもたらしてしまったことになってしまい、どうにも他人事とは思えないというか、高久氏に申し訳ないような気持ちになってしまいます。
その高久城、この地方の佐竹氏系城館によくあるように那珂川の河岸段丘上にあり、東西は沢によって自然の要害を成しています。先端附近の道路脇に簡単な看板があり、小道を登ってみるとそこは墓地となっていますが、ここが主郭にあたる曲輪です。この主郭は狭いですが、背後の堀切を越えると広い畑や民家となっている台地に続き、曲輪の面積もかなりの大きさです。近隣では宇留野城に一番似ている感じがします。特に見ごたえがあるのが大手口とされる北東の二重堀切で、西側はかなり埋められていますが東側は良好に残っており、その規模もなかなか大きなものです。一応高久城は高久氏の断絶によって廃城となったとされますが、お城の北側には「寄居」の地名もあり、一時は佐竹氏直轄の番城として拡大整備されていたのでは、とも思えます。
[2006.12.26]