那珂氏・江戸氏の源流となった

野口城

のぐちじょう Noguchi-Jo

別名:川野辺城

茨城県常陸大宮市野口

城の種別

平山城

築城時期

正暦二(991)年頃

築城者

川野辺通直

主要城主

川野辺氏、佐竹系野口氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀

野口城主郭<<2006年04月24日>>

歴史

秀郷流藤原氏の藤原通直が正暦二(991)年頃に築城して川野辺氏を名乗って居住した。延元元(1336)年六月、川野辺資鎮は那珂通辰に従って太田の独松峰で戦死、その子次郎は正平五(1350)年菊池武重に従って九州で戦い、のちに吉野で戦死したという。その子某が佐竹義篤に下り、のちに穴技の地に移った。応永元(1394)年、佐竹氏八代・行義の子、景義が川野辺に移り野口但馬守と称した。のちに景義は高久城に移り、その子義国が野口城を嗣いで野口周防守と称した。

天文九(1540)年、野口幹成とその子直之允は佐竹義篤に叛いて戦ったが落城、家臣団の野口四天王は義篤に降伏し野口城も廃城となった。またこの頃、佐竹義篤の書状で下野烏山城の番衆として野口の者共を差し向けるという記述があり、佐竹氏配下で「衆」として組織されていたらしい。

野口城はもともと川野辺城といい、平安末期の非常に古い築城と伝えられます。城主の川野辺氏は藤原秀郷流とされ、初代通直は川辺大夫を称しています。近い時期に常陸に入った一族に太田城を最初に築いた太田大夫通延がおり、系図上では兄弟とされています。太田城はのちに佐竹氏によって乗っ取られてしまい、太田氏は小野崎氏となって小野崎城に移り、のちに近世まで通じて佐竹氏の家老として存続しますが、川野辺城もそれと同じ頃の築城とされています。川野辺氏からはのちの那珂氏が生まれ、南北朝の騒乱には那珂通辰を大将に瓜連城の合戦などで活躍しますが、瓜連城の落城と通辰の敗死によって川野辺氏も没落し、やがて佐竹氏の一族にこの地を明け渡したようです。敗れた那珂氏はほとんどが滅亡する中で通泰ひとりが生き残り、やがて水戸城主として天正十八(1590)年まで君臨する国人領主・江戸氏となります。川野辺氏の名は戦国期にはほとんど聞くことがありませんが、南朝勢力の没落と那珂氏の滅亡、佐竹氏への支配の変遷、江戸氏の復活と活躍などの歴史の裏でこのように川野辺氏の存在と血筋が脈々と息づいていることが伺われます。

やがて川野辺城(野口城)主も佐竹氏の一族に交代しますが、この佐竹氏系野口氏は天文九(1540)年に佐竹義篤に叛いたカドで滅亡させられています。この時期の佐竹義篤への叛乱というのは、部垂の乱(部垂城の頁参照)で部垂義元に加担したということになるでしょう。それ以前には佐竹義篤の書状により、下野烏山城攻撃作戦において、「初手には野口・東野・高部・小舟の者共を差し向ける」というような記述があり、この頃野口城や高部城、小舟城などの家臣団がいわゆる「衆」としてまとめて佐竹宗家の管轄下にあったことが伺われます。

野口城は那珂川左岸の段丘上にあり、現状はほとんど畑になっています。周囲には「舘」「内古家」などの地名が残りますが、明瞭に遺構が認められるのは主郭であるT曲輪だけであり、基本的には単郭の館に近いものであったろうと思われます。ここに行ったのがちょうど桜の時期だったのですが、城址入り口に立っている見事な一本桜が印象的でした。主郭の背後は二重の大堀切で分断され、また西側には横堀があります。T曲輪北西隅には方形の妙な窪地がありますが、これは近年まであった民家跡ということで城郭遺構とは直接的には関係が無いようです。
ちょうど見学時にこの主郭で畑仕事をしていたオジイサンに色々話を伺ったのですが、「一週間前にも千葉の人が来た」などとおっしゃっていました。これはオレンジャー殿のことでした。さらに裏手の堀切のことなども教えてくれたのですが、語っている内容などからみて関谷亀寿氏の労作「茨城の古城」(筑波書林)に出てくる「畑に働いている里人」とおそらく同一人物だったと思われます。この本は平成二(1990)年発行の本なのですが、ずっと元気で耕し続けていたんでしょうね。色々教えてくれたオジイサン、お元気で頑張ってくだされ!

野口城平面図(左)、御前山城・野口城鳥瞰図(右)

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[2006.10.29]

青き那珂川の対岸から見る野口城。主郭の桜(中央)がいい目印になりました。この附近はとても景色の美しい場所です。 狭い路地の中に「野口城跡」の小さい案内板があります。ここから5mほどの台地上に上がると、いきなり主郭です。
主郭入り口に咲く見事な桜。下に解説板があります。畑で働くオジイサンに因んで「オジイサンの桜」と勝手に銘々させてもらいました。 その解説板。市町村合併で消える直前の御前山村が最後の意地で立てた、という。
主郭内部は畑になっており、何段かの段差がありますが、遺構かどうかは判別できません。北東の窪地は近年まであった民家跡だそうです。 曲輪北部の土塁。1mほどの高さ。
その背後には見事な「一の堀」とされる見事な堀切1があります。 さらに驚いたことに堀切は二重でした。「二の堀」(堀2)は深く豪快に台地続きを遮断します。
西側にはしっかり横堀もあります。さすが佐竹氏系の城館、小なりといえども押さえるところは押さえてますな。 北西隣の台地上の野口小学校は、水戸藩の郷校、時雍館の跡でもあります。館長は悪名高き田中愿蔵。コイツがまた悪いヤツで・・・。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」IC車30分。

JR水郡線「常陸大宮」駅よりバスまたはタクシー。

周辺地情報

那珂川対岸の山の上には御前山城があります。遺構はありませんが川野辺氏の末裔、那珂氏の那賀城もどうぞ。

関連サイト

 

 
参考文献

「桂村史」

「御前山郷土誌」

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)
「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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