野口城はもともと川野辺城といい、平安末期の非常に古い築城と伝えられます。城主の川野辺氏は藤原秀郷流とされ、初代通直は川辺大夫を称しています。近い時期に常陸に入った一族に太田城を最初に築いた太田大夫通延がおり、系図上では兄弟とされています。太田城はのちに佐竹氏によって乗っ取られてしまい、太田氏は小野崎氏となって小野崎城に移り、のちに近世まで通じて佐竹氏の家老として存続しますが、川野辺城もそれと同じ頃の築城とされています。川野辺氏からはのちの那珂氏が生まれ、南北朝の騒乱には那珂通辰を大将に瓜連城の合戦などで活躍しますが、瓜連城の落城と通辰の敗死によって川野辺氏も没落し、やがて佐竹氏の一族にこの地を明け渡したようです。敗れた那珂氏はほとんどが滅亡する中で通泰ひとりが生き残り、やがて水戸城主として天正十八(1590)年まで君臨する国人領主・江戸氏となります。川野辺氏の名は戦国期にはほとんど聞くことがありませんが、南朝勢力の没落と那珂氏の滅亡、佐竹氏への支配の変遷、江戸氏の復活と活躍などの歴史の裏でこのように川野辺氏の存在と血筋が脈々と息づいていることが伺われます。
やがて川野辺城(野口城)主も佐竹氏の一族に交代しますが、この佐竹氏系野口氏は天文九(1540)年に佐竹義篤に叛いたカドで滅亡させられています。この時期の佐竹義篤への叛乱というのは、部垂の乱(部垂城の頁参照)で部垂義元に加担したということになるでしょう。それ以前には佐竹義篤の書状により、下野烏山城攻撃作戦において、「初手には野口・東野・高部・小舟の者共を差し向ける」というような記述があり、この頃野口城や高部城、小舟城などの家臣団がいわゆる「衆」としてまとめて佐竹宗家の管轄下にあったことが伺われます。
野口城は那珂川左岸の段丘上にあり、現状はほとんど畑になっています。周囲には「舘」「内古家」などの地名が残りますが、明瞭に遺構が認められるのは主郭であるT曲輪だけであり、基本的には単郭の館に近いものであったろうと思われます。ここに行ったのがちょうど桜の時期だったのですが、城址入り口に立っている見事な一本桜が印象的でした。主郭の背後は二重の大堀切で分断され、また西側には横堀があります。T曲輪北西隅には方形の妙な窪地がありますが、これは近年まであった民家跡ということで城郭遺構とは直接的には関係が無いようです。
ちょうど見学時にこの主郭で畑仕事をしていたオジイサンに色々話を伺ったのですが、「一週間前にも千葉の人が来た」などとおっしゃっていました。これはオレンジャー殿のことでした。さらに裏手の堀切のことなども教えてくれたのですが、語っている内容などからみて関谷亀寿氏の労作「茨城の古城」(筑波書林)に出てくる「畑に働いている里人」とおそらく同一人物だったと思われます。この本は平成二(1990)年発行の本なのですが、ずっと元気で耕し続けていたんでしょうね。色々教えてくれたオジイサン、お元気で頑張ってくだされ!
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野口城平面図(左)、御前山城・野口城鳥瞰図(右)
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[2006.10.29]