実は通辰の居城ではなかった

那珂西城

なかさいじょう Nakasai-Jo

別名:芹沼要害

茨城県東茨城郡城里町那珂西

(宝憧院境内)

城の種別

平山城

築城時期

平安末期

築城者

大中臣(中郡)氏

主要城主

大中臣(中郡)氏、佐竹氏

遺構

曲輪、空堀、土塁

主郭土塁<<2005年01月29日>>

歴史

築城時期は不明。従来は南北朝期に活躍した那珂通辰(藤原秀郷流那珂氏)の居城として知られていたが、最近では秀郷流ではなく大中臣氏流の那珂(中郡)氏の居城であったらしいことが分かっている。大中臣系那珂氏は平安時代末期に常陸中郡六十六郷が与えられ那珂西城を築城、那珂東・西郡を支配した。また中郡実久は源頼朝側近の有力御家人として活躍し、建久六(1195)年の頼朝の東大寺供養の上洛にも供奉した。北条執権体制下では一時那珂東・西郡の地頭職を剥奪されたが、まもなく那珂西郡を再下付された。しかし南北朝の騒乱期に足利尊氏に従い各地を転戦、貞治四(1365)年頃に嫡流の中郡宗泰が丹波福知山に所領を得て移住し、残った一族が暫く那珂西城に居住したものの家勢が振るわず、やがて佐竹氏に所領を奪われた。

なお、佐竹義俊と実弟の実定の家督争いの際に太田城を追われた義俊が一時居住した「芹沼の要害」を那珂西城に比定する考え方もある。芹沼の要害はのちに義俊と不和になった子の義治も一時居住したという。その後の那珂西城については不明。

那珂西城に関しては、長い間常陸における南北朝時代の花形武将、那珂通辰の居城として知られており、そのため戦前の昭和九(1934)年にはすでに勤皇の象徴として県指定史跡になっていましたが、実際的には様々な傍証から那珂西城と那珂通辰とは無関係、実際の居住者は同じ那珂氏でも藤原秀郷流の那珂氏ではなく、大中臣氏系那珂(中郡)氏の居城であった、というのが正しいようです。この大中臣氏系那珂氏というのは南北朝時代に丹波国に移住してしまい、その後の那珂西城については城主・城歴は不明といったところが正しいようです。一説に真崎兵庫が居住したとも伝えられますが、これは城内の字名「兵庫坪」からの推測に過ぎず、まったくの誤りでしょう。一方、那珂通辰はどこにいたかというと、これもイマイチ確証は乏しいのですが、おそらく那賀城が正しいであろう、ということになっています。那珂通辰は那珂西城主の大中臣系那珂氏とは系図上は関係が無く、真偽のほどは別として関東における武家の三大潮流のひとつである秀郷流藤原氏の末裔とされ、川野辺城(野口城)主となった川野辺氏の直系一族、また佐竹氏家中で家老的な位置を占めていた小野崎氏とは遠い縁戚にあたります。南北朝騒乱期には南朝に与し、那珂通辰の非業の死もあって結果的に那珂・川野辺の一族は没落、唯一生き残った通辰の子・通泰の系統がのちの河和田城・水戸城主の江戸氏として復活します。那珂通辰の活躍については那賀城の頁をご覧くだされ。

那珂西城概念図

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那珂西城の現状の遺構を見る限り、その占地のあり方や縄張などからみても、佐竹氏の関連城館であるところはほぼ間違いないものと思われます。ここで注目されるのが「芹沼の要害」の存在です。この芹沼の要害というのは、佐竹氏十六代義俊と実弟の実定の家督争い、そして義俊とその子義治の不和の際に出てくる名前で、義俊は実定に太田城を追われて孫根城に逃れ、その子義治もまた康正元(1455)年に太田城を脱出してこの「芹沼の要害」に居住した、とされています。さらに応仁元(1467)年には義俊・義治父子は太田城に戻るものの、今度は山入氏の処遇をめぐる対応で父子の間に不和が生じ、またまた義治が「芹沼の要害」に走った、というもの。ソレガシはこの「芹沼の要害」というのがどこのことか長い間分かりませんでしたが、近世の地誌「水府志料」によれば「那珂は今の那珂西なるべし、芹沼は今岩根の根本坪鏡智院の傍にあり」として那珂西村宝憧院の境内にある古城址こそが芹沼の要害である、としています。岩根町というのは現在の行政区では水戸市に属しますが、ここはまさに那珂西城の直下にあたり、那珂川支流の藤井川、西田川などが流れていますが、往時はここに芹沼なる沼があったのかもしれません。もっとも、この義俊、義治の時代の佐竹氏の事蹟には不明点や事実関係に疑問のある部分も多く、芹沼の要害がどこを指すのか、それがどういった位置づけとなるのかを含め、再検討の余地があるように思えます。

現在の那珂西城は主郭が宝憧院境内となっており、周囲の堀、土塁などは比較的良好に保存されています。とくに那珂川に面した東側の斜面の横堀などは、いかにも佐竹氏系城館といった感を強く持ちます。U曲輪以下は耕地などのため判然としませんが、一部に土塁の残欠や空堀の痕跡があり、字名などからも何となくその縄張り、規模を推し量ることができます。ただ縄張り的には主郭の北側と西側の防御が弱く、ここにも曲輪がいくつかあったものと推測されます。

[2006.11.05]

那珂川に面した比高20mほどの台地にある那珂西城。佐竹系城館の典型的立地です。この撮影地点あたりに昔、「芹沼」があったんでしょうか? 台地上にこんもりした林が見えてきます。これは宝憧院で、このお城の主郭です。正面の山門の位置は本来の虎口ではないと思われます。
広い宝憧院境内が主郭とされます。宝憧院は元禄九(1697)年にこの地に移ってきたとのこと。 境内から見る土塁。高さ3mほどあり圧巻です。
主郭周囲の空堀はやや埋められたり浅くなっている場所もありますが概ね良好に残ります。 主郭南西角には解説板があり、大中臣氏系那珂氏にも触れられています。土塁上には城址碑もあります。
東側の斜面の横堀は浅くはなっていますが横矢折れも見られ、それなりに見所があります。 主郭北西端の堀底から見る土塁のコーナー部。櫓台のように高くなっており、かつ堀のコーナー部にやや突き出ています。
主郭北側の空堀はヤブが少なくて歩きやすい。ここから見る土塁の重厚さは圧巻です。 主郭西側に開口する本来の虎口と思われる部分。ただしここを虎口とするからには西側の防御が足りません。やはり曲輪がもう1つ2つあったんだろうなあ。
宝憧院裏手の謎の仕切り土塁の残欠?もしかしたらこの曲輪は内部が二分されていたのかもしれないなあ。 主郭以外はほとんど畑になっていますが、「兵庫坪」の土塁の残欠が目立ちます。ところでキミ、いつまでワシに着いてくるのか?
国道から見るU、V曲輪。わずかに堀の痕跡のような低地も見られます。おいワンちゃん、車が危ないからもう帰りなさい! 国道から見る兵庫坪の残存土塁。まるで古墳のようです。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」IC車15分。

JR水郡線「静」駅徒歩60分。

周辺地情報

石塚城が見ごたえあります。那珂川の対岸が戸村城。

関連サイト

 

 
参考文献

「大宮町史」

「桂村史」

「常北町史」

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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