「六分一殿」のふるさと

山名城

やまなじょう Yamana-Jo

別名:前城、下城

群馬県高崎市山名町

(山上の碑周辺)

城の種別

山城

築城時期

不明(鎌倉初期、または応永四(1397)年ごろ)

築城者

山名氏、または尹良親王

主要城主

山名氏、尹良親王、木部氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀 等

山名城の横堀<<2002年12月29日>>

歴史

源義家の孫、新田義重の子義範はこの山名城に拠って山名氏と称し、以後八代、山名城を護ったという。山名氏は鎌倉幕府倒幕後、足利尊氏に与して勢力を拡げ、侍所別当に任じられるなど、「三管四職」の位置を与えられ、西国を中心に十一ヵ国の守護職を任じられるなど勢力を伸ばした。
南北朝時代は南朝方である尹良親王の関東での橋頭堡として整備され、寺尾上城、中城と一連の名称で寺尾下城・前城等と呼ばれている。戦国期には在地土豪の木部氏の木部城に対する要害城として整備され、永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が崩れ、北条氏と武田氏が対立した際には、隣接する丘陵上に根小屋城が築かれて、根小屋城とともに境目の城として北条氏に対峙した。木部氏は武田に従い、天正十(1582)年の武田氏の滅亡時には木部範虎は天目山で武田勝頼に殉じている。その後は北条氏に従い、天正十八(1590)年の小田原の役ではその子貞朝は小田原城に入城、北条氏と運命を共にした。山名城はこの頃廃城となった。

高崎市のはずれ、藤岡市にほど近い烏川に面した丘陵上に山名城はあります。付近には「山ノ上古墳・山ノ上の碑」などがあり、武田氏の築城術が炸裂している根小屋城とも尾根続きで1.4kmとほど近く、付近は遊歩道として整備が行き届いています。

有名な山名氏は、新田義重の子、義範がこの地に土着して山名氏を名乗ったのがはじまりということで、この地はあの「応仁の乱」などで有名な山名氏の故郷にあたります。山名氏は室町幕府においては赤松氏、一色氏、京極氏らとともに侍所別当を務め、管領職の細川氏、斯波氏、畠山氏らとともに「三管四職」として勢威を奮います。一時は十一ヶ国もの守護職に任じられ、日本全土六十ヵ国の六分の一を領したことから「六分一殿」と呼ばれるほどに成長します。基本的にこの頃には山名氏の本拠は西国にあり、東国の片隅にある山名城はもはやほとんど忘れ去られた存在だったでしょう。が、時の将軍・足利義満にしっかり目をつけられ、「明徳の乱」で敗北して、その守護国を三ヶ国に減じられてしまいました。それでもやがて七ヶ国まで勢力を回復し、いよいよ応仁の乱を迎えます。

この、誰と誰が何のために戦っているのかさっぱり分からない無意味な戦争は十年もダラダラと続き、結果らしい結果も出ず、残ったのは焼け野原となった京の都と、幕府権威の失墜による「下克上の時代」の到来だけでした。この間、いわば旧勢力となった山名氏は近隣土豪との争いなどで疲弊し、やがて織田信長の部将であった羽柴秀吉の前に滅び去って行くのです。

で、この山名城が果たしてホントに山名氏の居城だったかというとそのような確証はまったく無いようで(^^;)、確かなところでは南北朝期に南朝方の尹良親王が立て籠もった寺尾城の外郭の一環として取り立てられ、その後戦国後期には西上州に侵攻した武田氏によって現在残る姿に大幅改修されたものであるようです。

主郭までは前述の「山ノ上の碑」経由で20分ほど、険しい登りもほとんど無く、尾根路も綺麗に整備されています。主郭へは大きな堀切を経由して登りますが、尾根上にはこれ以外にも多くの堀切があり、また主郭、二郭周囲には藪化しているものの長大な横堀が認められます。主郭は整備が行き届いていますが、それ以外の場所は基本的に樹木が茂る山林になっています。それでもちょっとコースを外れてみると、南側斜面には多くの腰曲輪を配し、竪堀を堀底道とするなど、複雑な構造が見られます。大きなお城ではありませんが、戦国期に改修されたらしい、技巧的な縄張を見ることができます。基本的に今見られる遺構は武田氏の改修後のものなのでしょうが、派手さは無いものの典型的な山城らしさを見せる山名城は、結構気に入りました。

逆光でちょっと失敗な遠景。山城、というよりも小高い丘陵に築かれたお城です。 登り始めてすぐ目に付く山上古墳。七世紀中葉の遺跡で、隣の「山上の碑」とともに特別史跡に指定されています。学術調査の進んでいなかった中世の人々は、これを何だと思ったのでしょうか?

根小屋城へ向かう尾根から分かれて東へ向かう。写真はなんだかよく分からないと思いますが、一応竪堀です。

左写真の竪堀の上には、見事な堀切がありました。主郭西側の尾根続きにはこうした堀切が多く見られます。

主郭西の大堀切。ここから主郭への道が伸びています。かつての虎口がこの堀切経由だったのかどうかはわかりません。

主郭には「山名城址」の石碑と、簡単な解説板があります。解説板はここに来る途中の尾根筋にもあり、簡単な縄張り図も記載されているので大変助かります。

主郭は綺麗に整備され、ベンチや物見台などが設置されています。できれば主郭以外の場所も整備をお願いしたいところです。

主郭からの景色。なかなか眺めは素晴らしいのですが、風が強くて結構寒かったです。。。。

主郭北側は横堀と土塁が取り巻いていますが、横堀は猛烈な薮。一応突入してみましたが身動きがとれず敢え無く撤退。

主郭と二郭を隔てる堀切。左写真の横堀と連結し、主郭をほぼ半周しています。

主郭の南側は多くの腰曲輪が見られます。削り落とされた塁壁とも相まって、なかなか見ごたえがあります。

主郭南側の腰曲輪間を繋ぐ堀底道。横堀とも解釈できそうだし、結構な傾斜もあるので竪堀の様でもあります。この附近の遺構は複雑で、高度な築城術を感じます。

二郭は薮でこそありませんが、雑木が茂る山林となっていました。中ほどに段差があり、二段に削平されていたようです。

二郭にはところどころに低い土塁が見られます。写真の土塁は南側の塁壁が折れている場所。櫓台だったかもしれません。

二郭東の堀切は二郭北側の折れをもつ横堀に繋がっていて、見ごたえのある場所なのですが、残念ながら猛烈な薮。ここはぜひ何とかして欲しいところです。

三曲輪先端の堀切も横堀となって曲輪をほぼ半周します。このお城は傾斜の緩さを横堀でカバーしている部分が目立ちます。

根小屋城へと向かう西側の尾根上の堀切。ちょっとコースを外れると、こうした堀切が何箇所も目に付きます。

おまけ。「水戸黄門と山賊」の解説板。「何故こんなところで水戸黄門?」と思ったら、なんでも黄門様が山名八幡宮へ参詣の折、山賊に襲われたんだとか。真偽のほどは言うに及ばず、ですね(笑)

隣接する「武田式ハイテク城郭」根小屋城に比べると地味なお城ですが、オーソドックスな山城っていう雰囲気がとても良いです。できれば主郭以外も整備してもらえると、その技巧をより堪能できるのですが。

 

交通アクセス

上信電鉄「山名」駅より徒歩15分。

関越自動車道「高崎」ICから20分、上信越自動車道「藤岡」ICより車10分。

周辺地情報

尾根続きの根小屋城は素晴らしいです。ついでに平時の館であった木部城も。近隣ではやはり箕輪城が出色。

関連サイト

 

 
参考文献 「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

帝國博物学協会 城郭研究部

お城めぐりFAN」のメーリングリストでの投稿記事が大変役に立ちました。

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