オテンバ姫、お跳ねになる之事

助崎城

すけさきじょう Sukesaki-Jo

別名:

千葉県香取郡下総町名古屋

 

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

不明(康正年間頃?)

築城者

大須賀氏

主要城主

助崎大須賀氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、伝移築城門

姫が跳び越えた尾羽根川越しに見る助崎城<<2003年03月20日>>

歴史

助崎城の築城時期は定かではない。大須賀氏は千葉常胤の四男・四郎胤信を祖とし、「千葉六党」のひとつとして大きな勢力を持っていた。大須賀氏は当初、松子城を本拠にしていたが、松子城・助崎城とも成立時期は諸説あって定かではない。

大須賀氏はのちに松子城を本拠とする松子大須賀氏と助崎城を本拠とする助崎大須賀氏に分かれ、松子大須賀氏が本宗家として「尾張守」を、助崎大須賀氏は「信濃守」を名乗った。享徳三(1454)年の「享徳の大乱」および翌年の千葉氏の内訌に際しては、本宗家の松子大須賀氏は関東管領・上杉氏と室町幕府によって派遣された東常縁に従い、これに対して助崎大須賀氏は古河公方・足利成氏に従い原胤房、馬加康胤らと行動を供にした。

戦国期にも助崎大須賀氏は本宗家の松子大須賀氏とは政治的に別個の勢力として扱われ、独立性の高い松子大須賀氏に対し、助崎大須賀氏は千葉氏の強い影響下にあり、のちに小田原北条氏の支配下に置かれた。永禄元(1558)年六月十八日北条氏伝馬手形により、大須賀式部丞に対し小田原から下総までの伝馬使用が許可されている。また永禄十二(1569)年のものとみられる五月八日付け北条氏康書状により、大須賀信濃守は武田信玄の小田原城来攻に対し、これまで在番していた岩槻城から滝山城への配置換えを命ぜられており、北条氏の直轄の元で岩槻城滝山城などの在番を務めていた事がわかり、千葉氏家臣団の中では早い段階で北条氏との結びつきがあったことがわかるという。元亀三(1572)年には、大須賀信濃守が所領を接する神崎上総介が「遺恨之儀」により戦ったことが千葉胤富の書状によりわかる。

最後の当主となった朝胤は天正十八(1590)年、小田原城の籠城に加担し、小田原城の開城によって事実上滅亡し、成田市大室附近に土着して帰農したという。

なお助崎城は『松平家忠日記』により、文禄元(1592)年八月二十二日に大窪十兵衛(大久保長安)が助崎に帰ったと言う記述が見られることから。近世初頭にも徳川氏の家臣によって使われていた可能性がある。

助崎城は千葉六党の一翼を担う大須賀氏(助崎大須賀氏)累代の居城です。全国的には多分マイナーな大須賀氏、「それって誰?」と言う方は、高天神城の攻防で登場する遠州横須賀城の初代城主、大須賀康高を思い出してください。この康高もその名で分かるとおり、千葉氏の一族である大須賀氏の後裔なのです。この大須賀氏はのちに榊原康政の子・忠政を養子に迎え、上総久留里城主として房総に帰ってきます。

下総大須賀氏は助崎城の「助崎大須賀氏」と松子城の「松子大須賀氏」に分かれ、それぞれが独立性の高い存在であったようです。この分家のきっかけは諸説あるものの、「享徳の大乱」に連動して千葉胤直・胤宣父子が多古城志摩城で攻め滅ぼされた千葉氏の内訌がきっかけであったようです。この結果分かれた「助崎(介崎)殿」は早くから北条氏の直臣扱いとして各方面で活躍、といえば聞こえはいいですが要するにコキ使われていたようで、岩槻城滝山城など、大須賀氏とまったく利害関係のなさそうな場所にまで引っ張り出されていたようです。同じような境遇にいた坂田城主の井田氏、小金城主の高城氏ともども、ご苦労をお察しいたします。

ともあれ助崎大須賀氏は近隣に稲葉氏、鍛冶作氏、幡谷氏などの多くの庶流を配置しつつ、尾羽根川、根木名川流域を支配した有力国人領主となっていました。しかし、「東国戦記実録」「東国闘戦見聞私記」の「龍ノ台合戦織田左京太夫討死之事」によれば、助崎城には内田信濃守なる人物が立て籠もっており、織田左京大夫の三ヶ月に渡る攻囲を受けていたとされます。ここで出てくる「幻のヒーロー」栗林義長、龍ノ台で織田左京大夫を討ち取り、勝鬨を上げつつ助崎城の救援に向かうと、織田半太夫、荒海長九郎らの包囲軍は「こりゃタマラン」とばかりに逃げ出し、長期に渡る籠城戦で青色吐息だった内田信濃守は驚喜して義長を迎え入れた云々・・・とのこと。「東国〜」の史実性を云々しても始まらないのでこの話はこれでオシマイ!

遺構面での助崎城は起伏のある舌状台地に築かれており、各曲輪がそれぞれ独立した丘陵に築かれたような多郭雑型の城郭となっています。おそらく築城当初は主郭、およびせいぜい二郭くらいまでの規模であったでしょう。三郭にあたる「鍛冶作」、外郭にあたる「稲葉山」については、大須賀氏庶流に鍛冶作宮内少輔朝満、稲葉安芸守朝重などの名前が見られることから、何らかの関係が想像されます。最も遺構をよく残す主郭はまず周囲を囲む横堀が素晴らしいです。大須賀氏系統のお城には同じような横堀が見られるケースが多いのですが、助崎城のそれは抜群です。横堀の外側にさらに土塁を盛ることによって、さらに塁壁を高く、さらに堀を深くしています。主郭の縁にも土塁があり、これもほぼ全周しています。主郭先端部には時代は下るものの実に趣のある妙見像が建っていて、ここも必見です。この妙見像の周囲はコの字に囲まれた土壇がありますが、ここは千葉氏一族たる大須賀氏の宗教的な中枢部かもしれません。その他の曲輪の遺構は断片的ですが、広大かつ複雑な地形の台地全体に遺構が散在しています。

助崎城をめぐる面白いエピソードとしては天正十八(1590)年の「小田原の役」での「姫」の奮戦のお話があります。この姫、大須賀信濃守の夫人とも、女子ともいわれますが、姫の実在性や話の信憑性を含め、ここではそういうヤボな詮索はナシです(笑)。この姫、城主不在の助崎城を守って薙刀を振るって奮戦、やがて敵わぬと悟ると馬に飛び乗り、城下の小川を「お跳ね」になって渡り、目の前の祥鳳院に駆け込んだ。しかし後難を恐れた祥鳳院は姫を匿うことを拒否、さらに逃れた姫は成田市大室の円通寺に匿われた、ということです。この男勝りの姫が「お跳ね」になった川が「尾羽根川」といわれるようになったとか。この姫の薙刀、円通寺に伝わっていて、毎年七月十九日の須賀神社のお祭り、「助崎祗園祭」では神輿の先導としてお披露目されます。円通寺には、「伝・助崎城大手門」ならびに「東門」が移築されており、見学のついでに必見です。また、城下には姫を葬った塚がある、とのことでもあります。しかも、姫の庇護を拒否した祥鳳院のある成田市高崎地区と助崎城のある下総町名古屋地区では、いまでも両地区間の確執があり、縁組することなどを嫌っているという。また、縁組してもそれは決して幸せなものにならない、とも。助崎城の「天正十八年」はまだまだ終わらない!?

助崎城主郭方面の遠景。助崎城の城域は広く複雑で、とても地上からでは全域を撮影できるものではありません。 尾羽根川対岸の祥鳳院からの眺め。くだんのオテンバ姫はこの写真奥の方から馬にまたがってやってきたことでしょう。
オテンバ姫が「お跳ね」になったという尾羽根川越しに眺める助崎城。 城域の北端にあたる乗願寺。この附近が大手門と伝わります。大須賀信濃守が伽藍を整えたとの事ですが、大須賀氏に関連したものはざっと見た限りナシ。北に広がる「名古屋」集落はむろん「根古屋」の転訛したものです。
乗願寺附近の竪堀と竪土塁。立派なものですがこれだけでは役に立ちません。おそらく車一台分しかない台地基部を掘り切って、土塁等も配置していたでしょう。 乗願寺の南、小さな交差点脇にある櫓台。この背後の山林には竪堀があり、堀を登ってくる敵を監視すると同時に、複雑な台地の支点を押さえる重要な場所であったことでしょう。
三郭に相当する字鍛冶作。永正五(1505)年に没した大須賀宗朝の子、鍛冶作宮内少輔朝満との関係が想像できます。 鍛冶作の虎口と見られる附近には櫓台状の高い土壇があり、上部には土塁と思われる遺構もあります。
鍛冶作の東側を廻る横堀。横堀という防御様式はこのお城の遺構面での最大の特徴といえるでしょう。 二郭相当の字登城は畑になっており、わずかに帯曲輪が認められるほかは目立った遺構はなし。先端部に堀状の地形がありますが、これはかつての村道の名残だそうです。
いよいよ主郭、「助崎」へ。なんといってもこの周囲を囲む横堀の素晴らしさに感歎します。多少藪になっていますが突入する価値、大いにアリ! 同じく横堀。単なる横堀ではなく塁壁外側に土塁を盛ることにより、高低差を増すと同時に寄せ手にこの横堀の存在を直前まで悟らせないという作りになっています。
横堀をめぐる一騎駆け状の土塁。下はかなりの急斜面です。この塁上は比較的歩きやすく、主郭東側の腰曲輪まで続いているので、見学の際はここを歩くと良いでしょう。 主郭は一部水道施設があるほかは山林化しています。が周囲の土塁はよく残っていました。ここから見下ろす横堀は高さがあって圧巻です。
主郭北側の入り口はオリジナルの虎口なのかどうかは不明ですが、堀底状の入り口はやはり虎口を思わせるものがあります。 主郭南側にも虎口と思われる開口部があり、土塁がやや高く盛られています。搦手と推定。
主郭先端にひっそりと佇む妙見像。比較的近世のものですが、その端正な像は鳥肌モノです。ここにはコの字の区画がありますが、櫓台ではなく、かつての妙見社の跡、いわば宗教的。精神的中枢部であったと思います。 主郭と二郭を隔てる堀切は現在、道路になっています。もともとの助崎城はこのふたつの曲輪程度の規模であったでしょう。
鍛冶作から字下門前へ降りる坂道の脇にあった湧水。おそらく当時も井戸として使われていたのではないでしょうか。 字下門前は居館推定地でもありますが、この程度の丘陵城郭で居館と要害の関係が必要だったのかどうか。むしろ家臣団の集住地区ではないでしょうか。
オテンバ姫が祥鳳院で門算払いを食った後で逃げ込んだ円通寺。中世期に大須賀胤輝が堂宇の再建をしています。姫の薙刀を所蔵しているのもこの寺。屋根には千葉氏の「月星」が輝いています。 これが円通寺に残る「伝・助崎城大手門」。本物なら文化財級ですが、なにやらいつ倒壊しても可笑しくないくらい傾いております。貴重な城門を救って!
こちらも円通寺の「伝・助崎城東門」。でも大手門より大きいのは何故?こちらも屋根に月星が輝いています。 大手門の梁、「手斧(ちょうな)かけ」ということですがイマイチよくわかりませんでした・・・。
行ってきました「助崎祗園祭」。須賀神社にはデカデカと月星の垂れ幕が!そして「姫の薙刀」はどこに? これがくだんの「オテンバ姫の薙刀」です!が、濡れないようにビニールでぐるぐる巻き・・・。いい写真が撮れずに残念です。来年の助崎祗園祭でリベンジするしかないか・・・。

 

 

交通アクセス

東関東自動車道「成田」ICより車20分。

JR成田線「久住」駅徒歩40分。

周辺地情報

助崎城支城群は見ていません。大栄町には松子大須賀氏の松子城がありますが土取りでかなり破壊されています。

関連サイト

千葉城郭研究会会員の外山信司さん、余湖くんのホームページ管理人の余湖さん、北総の秘めたる遺跡管理人の岡田さん、茨城城郭会会員の五郎さんより情報を頂きました。有難うございました。

 
参考文献 「千葉県中近世城跡研究調査報告書第17集 -助崎城跡測量調査報告-」(千葉県教育委員会)、「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、「房総の古戦場めぐり」( 府馬清/昭和図書出版)、「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会)、「東国戦記実録」(小菅與四郎編/崙書房)、「房総の戦国を語る」(房総歴史文学会/暁印書館)

参考サイト

余湖くんのホームページ千葉氏の一族

 

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