廃藩置県まで続いた戦国の陣城

横須賀城

よこすかじょう Yokosuka-Jo

別名:

静岡県小笠郡大須賀町松尾町

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

天正六(1578)年

築城者

徳川家康

主要城主

大須賀氏

遺構

曲輪、石垣、天守台、土塁、三日月堀、移築現存門、鯱

玉石垣の天守台<<2001年07月07日>>

歴史

天正二(1574)年、武田勝頼は遠江へ侵攻を開始し、徳川の属将・小笠原長忠が守備する高天神城は一ヶ月あまりの包囲の末落城、小笠原長忠は武田に奔ったが、やはり高天神城の守備に当たっていた大須賀康高は徳川勢に残り、浜松城を目指して落去した。

翌天正三(1575)年五月、長篠・設楽ヶ原合戦で武田軍が徳川・織田連合軍に大敗すると、家康は高天神奪還の行動を開始、当初は馬伏塚城を本陣に高天神城を監視していたが、天正六(1578)年三月にはより本格的な軍事拠点として横須賀城を築城して本陣とし、大須賀康高を城主に任じた。家康は周囲の三井山、山王山、宗兵衛山などに付城として「六砦」を築いて武田勢の兵糧弾薬の搬入を遮断し、天正九(1581)年三月、援兵を断念した岡部真幸は早暁に城門を開け放ち討って出るが、城兵700余人が討ち死にし落城した。家康は高天神城にかわってこの横須賀城を遠江東部から駿河への進出の拠点として整備した。

天正十八(1590)年に家康が関東に移封になると、大須賀康高の養子・忠政(榊原康政実子)は上総久留里城へ移封となり、太田金山城の由良氏の一族の渡瀬氏、豊臣譜代の有馬氏が城主となった。慶長五(1600)年の関ヶ原の役で東軍が勝利すると、有馬豊氏は丹波福知山城へ移封となり、大須賀忠政が城主に復帰、近世城郭として整備された。その後は能見松平氏・井上氏・本多氏が城主となり、西尾氏が城主に任じられてからは八代続いて明治の廃藩置県を迎えた。

国道からでもこんもりした丘の石垣が良く見えて、わかりやすい場所にあります。かつてはこの城の真ん前まで海だったそうで、遠江の陸運と海運を抑える拠点だったそうです。海面は地震による隆起で、今でははるかに遠くなってしまいましたが。それよりも、家康の執拗なまでの高天神城攻めの陣城として有名ですね。しかし、戦国時代の城攻めのための陣城がそのまま近世城郭として幕末まで続いた例も珍しいような気がします。

実はここの本丸石垣、いかにも後世に作ったように見える石垣で、「こんなもん模擬に決まってらあ」と思い、ろくに見学もせず通り過ぎてしまいましたが、実は現存遺構だそうです。玉石垣という、天竜川の自然石を積んだもので、丸くて小さい石による石垣なのですが、こんなのがあるなんて知りませんでした。これから行く人はじっくり見てください。大手門付近は完全に住宅地化していましたが、わずかですが三日月堀も見られます。近くの撰要寺には、江戸初期の本多氏が城主時代に建てられた不開門(あかずのもん)が現存しています。恩高寺には、当時の天守に用いられていた鯱が保存されているそうですが、これは見逃しました。

二ノ丸方面から西の丸・本丸方面を見上げる。国指定史跡として綺麗に整備されています。 西の丸・本丸の土塁。西の丸と本丸は実質的にひとつの曲輪で、とくに仕切になるものはありません。

本丸天守台。二段の玉石垣と礎石群があります。かつては三層四階の天守がありました。 本丸の大手口に向かう方面を固める三日月堀。三日月堀といえば武田氏が有名ですが、この城に武田氏が駐屯したことはなく、たまたま同じような形になったか、実は信玄を尊敬していた家康が真似たかのどちらかでしょう。

大手門付近はすっかり宅地化され、ご覧の標柱が建つ以外は往時を偲ぶものはありません。 本丸背後の北の丸と松尾山。松尾山には池があったらしく、水の手であったと同時に、本丸背後の防御に重要な役割を果たしたようです。

北の丸の裏には、農地化された堀跡が横たわっています。 二ノ丸以下の曲輪は殆どが宅地や農地、幼稚園などになってしまいました。

撰要寺に移築現存された不明門。移築というよりは、寺そのものが搦手として城域の一部だったのでしょう。これは江戸初期の建築。 撰要寺には、初代城主・大須賀氏の墓所があります。

 

 

交通アクセス

東名高速道路「掛川」ICより車20分

JR東海道線「掛川」駅よりバス

周辺地情報

やはり関係の深い戦国城郭、高天神城はぜひ見たいところ。綺麗に整備された掛川城も近い。

関連サイト

 

 
参考文献 別冊歴史読本「戦国古城」(新人物往来社)、別冊歴史読本「検証 戦国城砦攻防戦」(新人物往来社)、「徳川家康・四海統一への大武略」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

 

 

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