武田氏と徳川氏が長年にわたって争奪を繰り広げた激戦の地です。小説などでもたびたび登場する有名な城ですね。早くアップしなきゃ、と思いつつも、思い入れがありすぎてなかなかアップできませんでした。
遠目で見る限り、それほど高い山でもなく、堅固な要害には見えないのですが、周囲が切り立った崖に囲まれている上、尾根上には曲輪が隙間無く配置されていて、なるほど堅固な作りでした。なにより、遠江完全支配とその後の駿河方面への侵攻を狙う徳川氏にとっては、この街道を押さえる高天神城が敵方の手にあることは邪魔で邪魔でしかたなかったことでしょう。それは武田氏にとってもおなじことで、駿河・甲斐の防衛と遠江・三河方面への進出には是非とも押さえておかなければならない「絶対国防圏」だったことでしょう。天正二(1574)年に徳川の武将・小笠原長忠は武田勝頼の猛攻の前に援軍を要請し、家康は織田信長にさらに援軍を要請します。しかし織田軍は動かず、家康も武田の騎馬隊の恐ろしさを三方ヶ原で嫌というほど味わっていたので単独では作戦行動ができず、結局高天神城は武田の手に渡ってしまいます。これはその後の有名な「長篠・設楽ヶ原合戦」の嚆矢となる事件でもありました。
天正六(1578)年三月、家康は横須賀城を築いて高天神城奪取の拠点とし、周囲には六砦を築いて完全包囲します。長篠・設楽ヶ原で大敗した武田軍は今度は守勢に回り、背後を脅かす北条氏の動向もあって高天神を積極的に後ろ楯することもできず、城将岡部真幸以下900名の城兵は玉砕を覚悟します。この時、家康の陣所に幸若舞の名手・与三太夫がいることを知った城兵は、小姓の時田鶴千代を使者に、この世の名残にひとさし舞いを所望します。城兵の覚悟を悟った家康は、与三太夫に、源義経の最期を語る謡曲「高館」を舞うことを命じます。玉砕前夜、大篝火の前で演じられた舞に、食い入るように見入り、涙し、一期の別れに水杯を交わし、そして翌日の天正九(1581)年三月二十二日早暁、一斉に門を開け放ち、めいめい思う方向を目指し血路を開きます。が、700余名の首級が討ち取られ、遂に高天神城は落城します。
武田氏より派遣されてきた軍監・横田甚五郎尹松は「犬戻り猿戻り」といわれる険阻な尾根道を夜間脱出に成功して、甲斐府中の躑躅ヶ先館に帰り着いています。武田氏は遠江方面の足場を失い、この後は木曾義昌や穴山梅雪等の家臣団の離反が相次ぎ、滅亡への坂道をまっ逆様に転げ落ちていくことになります。
徳川・武田両軍将兵の多くの血を吸い取った怨念の城、高天神城は、武田氏と徳川氏・織田氏の二大勢力の狭間で翻弄され、その過酷な運命を終えて廃城となりました。今ここから見おろす遠江の大地と、彼方に広がる太平洋は静かに美しく横たわっていますが、耳を澄ませばここで死んでいった多くの将兵、運命に弄ばれた人々の怨嗟の声が今も聞こえるようです。
城は東峰と西峰に分かれていて、「一城別郭」式の城郭です。もともとは東峰だけの城郭であったものを、武田氏が拡張して現在の規模の大きい遺構を残すことになりました。山が険しいため面積の広い郭が作れず、またその地形ゆえに大掛かりな普請が行われた形跡はあまりなく、戦国末期まで使用された城としてはシンプルな構造です。ただ、武田氏によって拡張された西峰の堂の尾郭付近を中心に、あきらかに築城年代の違う技法が取り入れられていて、両陣営の緊張の高まりとともにより高度な技法を用いた戦国城郭に発展していった経緯が目で追える城です。
津本陽「暗殺の城」は高天神攻防にスポットを絞った小説です。史実的な描写に虚実織り交ぜた忍法モノの要素が加わった異色の逸品です。
高天神城めぐり