果てしない争奪戦を繰り広げた玉砕の城

高天神城

たかてんじんじょう Takatenjin-Jo

別名:鶴舞城

静岡県小笠郡大東町下土方

城の種別

山城

築城時期

明応〜文亀年間(1492〜1504)?

築城者

今川氏親?

主要城主

福島氏、小笠原氏、岡部氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、堀切、井戸、石牢他

高天神城遠景<<2001年07月07日>>

歴史

築城時期は諸説あり定かではないが、明応から文亀年間に、駿河の守護・今川氏が遠江の斯波氏への対抗のために築城したといわれる。大永元(1521)年の飯田河原合戦などをはじめとして、今川氏と甲斐の武田信虎の争いでは、城将の福島正成がたびたび甲斐に侵攻し信虎を悩ませた。天文五(1536)年、正成は今川氏の後継者争い(花倉の乱)で玄広恵探側についたが、軍師・太原崇孚雪斎を擁する梅岳承芳(のちの今川義元)が勝利し、正成は仇敵の信虎を頼って甲斐に逃亡するが、信虎により殺害された。正成の子は北条氏綱を頼り相模に逃走、のちに氏綱の養子となり北条綱成を名乗った。義元は高天神城に小笠原長忠親子を配した。

永禄十一(1568)年、甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄が駿河に乱入し、今川氏真を遠州掛川城に追うと、高天神城へは西から徳川家康が進出し占領、今川方の属将であった小笠原長忠をそのまま城将として置いた。元亀二(1571)年、信玄は遠江に侵攻し高天神城を攻めたが、城の守りが堅いのを察し兵を引いている。信玄が天正元(1573)年に没すると、武田家を継いだ武田勝頼は遠州方面へ進出を開始、天正二(1574)年二月、二万の大軍で高天神城を囲んだ。小笠原長忠は匂坂牛之助を浜松城に派遣し徳川家康に援軍を要請したが、家康も単独での軍事行動を無理と判断し、同盟国の織田信長に援軍を求めた。しかし、信長は援軍を出さず、長忠は穴山信君の講和に応じて一ヵ月後に開城、長忠は武田に降り、大須賀康高らは家康を頼って浜松に落ち延びた。

翌天正三(1575)年五月、長篠・設楽ヶ原合戦で武田軍が徳川・織田連合軍に大敗すると、家康は高天神奪還の行動を開始、当初は馬伏塚城を本陣に高天神城を監視する。天正六(1578)年三月には横須賀城を築城して本陣とし、周囲の三井山、山王山、宗兵衛山などに付城として「六砦」を築いて武田勢の兵糧弾薬の搬入を遮断した。天正八(1580)年秋、城将・岡部真幸は躑躅ヶ先館の武田勝頼に援兵を求める密使を派遣したが、軍監・横田尹松は別書を以って後詰を断り、高天神を見捨てるよう要請する。天正九(1581)年三月、援兵を断念した岡部真幸は早暁に城門を開け放ち討って出るが、城兵700余人が討ち死に、真幸も戦死した。横田尹松は「犬戻り猿戻り」といわれる峻険な尾根道を伝って脱出に成功し甲斐の躑躅ヶ先館に帰陣している。また、天正二年の落城時に捕虜となった徳川氏の家臣・大河内源三郎正局がこの時七年ぶりに石牢から救出されている。のち家康は武田氏への前線基地を横須賀城に移し、高天神城は廃城となった。

武田氏と徳川氏が長年にわたって争奪を繰り広げた激戦の地です。小説などでもたびたび登場する有名な城ですね。早くアップしなきゃ、と思いつつも、思い入れがありすぎてなかなかアップできませんでした。

遠目で見る限り、それほど高い山でもなく、堅固な要害には見えないのですが、周囲が切り立った崖に囲まれている上、尾根上には曲輪が隙間無く配置されていて、なるほど堅固な作りでした。なにより、遠江完全支配とその後の駿河方面への侵攻を狙う徳川氏にとっては、この街道を押さえる高天神城が敵方の手にあることは邪魔で邪魔でしかたなかったことでしょう。それは武田氏にとってもおなじことで、駿河・甲斐の防衛と遠江・三河方面への進出には是非とも押さえておかなければならない「絶対国防圏」だったことでしょう。天正二(1574)年に徳川の武将・小笠原長忠は武田勝頼の猛攻の前に援軍を要請し、家康は織田信長にさらに援軍を要請します。しかし織田軍は動かず、家康も武田の騎馬隊の恐ろしさを三方ヶ原で嫌というほど味わっていたので単独では作戦行動ができず、結局高天神城は武田の手に渡ってしまいます。これはその後の有名な「長篠・設楽ヶ原合戦」の嚆矢となる事件でもありました。

天正六(1578)年三月、家康は横須賀城を築いて高天神城奪取の拠点とし、周囲には六砦を築いて完全包囲します。長篠・設楽ヶ原で大敗した武田軍は今度は守勢に回り、背後を脅かす北条氏の動向もあって高天神を積極的に後ろ楯することもできず、城将岡部真幸以下900名の城兵は玉砕を覚悟します。この時、家康の陣所に幸若舞の名手・与三太夫がいることを知った城兵は、小姓の時田鶴千代を使者に、この世の名残にひとさし舞いを所望します。城兵の覚悟を悟った家康は、与三太夫に、源義経の最期を語る謡曲「高館」を舞うことを命じます。玉砕前夜、大篝火の前で演じられた舞に、食い入るように見入り、涙し、一期の別れに水杯を交わし、そして翌日の天正九(1581)年三月二十二日早暁、一斉に門を開け放ち、めいめい思う方向を目指し血路を開きます。が、700余名の首級が討ち取られ、遂に高天神城は落城します。
武田氏より派遣されてきた軍監・横田甚五郎尹松は「犬戻り猿戻り」といわれる険阻な尾根道を夜間脱出に成功して、甲斐府中の躑躅ヶ先館に帰り着いています。武田氏は遠江方面の足場を失い、この後は木曾義昌や穴山梅雪等の家臣団の離反が相次ぎ、滅亡への坂道をまっ逆様に転げ落ちていくことになります。

徳川・武田両軍将兵の多くの血を吸い取った怨念の城、高天神城は、武田氏と徳川氏・織田氏の二大勢力の狭間で翻弄され、その過酷な運命を終えて廃城となりました。今ここから見おろす遠江の大地と、彼方に広がる太平洋は静かに美しく横たわっていますが、耳を澄ませばここで死んでいった多くの将兵、運命に弄ばれた人々の怨嗟の声が今も聞こえるようです。

城は東峰と西峰に分かれていて、「一城別郭」式の城郭です。もともとは東峰だけの城郭であったものを、武田氏が拡張して現在の規模の大きい遺構を残すことになりました。山が険しいため面積の広い郭が作れず、またその地形ゆえに大掛かりな普請が行われた形跡はあまりなく、戦国末期まで使用された城としてはシンプルな構造です。ただ、武田氏によって拡張された西峰の堂の尾郭付近を中心に、あきらかに築城年代の違う技法が取り入れられていて、両陣営の緊張の高まりとともにより高度な技法を用いた戦国城郭に発展していった経緯が目で追える城です。

津本陽「暗殺の城」は高天神攻防にスポットを絞った小説です。史実的な描写に虚実織り交ぜた忍法モノの要素が加わった異色の逸品です。

高天神城めぐり

 

交通アクセス

東名高速道路「菊川」ICより車20分

JR東海道線「掛川」駅よりバス

周辺地情報

家康軍の陣城であった横須賀城、馬伏塚城など。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)、別冊歴史読本「戦国古城」(新人物往来社)、別冊歴史読本「検証 戦国城砦攻防戦」(新人物往来社)、「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)、「徳川家康・四海統一への大武略」(学研「戦国群像シリーズ」)、小説「暗殺の城」(津本陽)、現地解説板ほか

参考サイト

 

 

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