「天文の内乱」で滅んだ里見義豊の正妻・一渓院は南条城主・烏山弾正左衛門時貞の息女であり、乱の当時、この妻はまだ十六歳だったそうです。里見義豊が犬掛の合戦、そして稲村城をめぐる最後の攻防で敗れ、敗死したと知ったこの妻は、泣きながら自害を遂げたということです。なんとも痛ましいお話です。里見義豊にほこのほかに二人の側室がいたといい、中里備中守の息女は稲村城で自害し、身籠っていた小倉民部定光の息女は義豊の命で山深い五十蔵集落(和田町)に逃れ、そこで一子を産んだ後に亡くなったそうです。いくさというものが、男の闘いであるだけでなく、女たちにとってもまぎれもなく闘いであり、敗者の女には悲劇的な最期が待っている、そんなことを思うと、なんとも胸が痛くなる気がします。
この烏山氏の息女の乳母がのちに出家し、寺を建立して一渓寺と名づけて、この悲劇のヒロインの菩提を弔ったということで、寺はもう廃寺になりましたが、南条城の裏手には「姫塚」という墓があるということでした。
南条城そのものは南条集落の八幡神社背後の丘の上にあり、のちの館山城からは指呼の間に距離にあり、里見義頼が「正木憲時の乱」を鎮定して大多喜正木領を併呑したのちに、里見義頼の次男の弥九郎時堯に与えられたということです。その後、大戦中に海軍の施設が設けられたそうで、八幡神社附近から主郭(コンクリの建物跡がある)まで、改変も少なくないということでした。
居住性のある曲輪としてはこの主郭のみと言っていいのですが、尾根の下には多くの腰曲輪が見られ、一部竪堀や横堀状遺構などが見られることからも、戦国後期にかけて使われていたことを裏付けるようです。
さて、今回ソレガシはどうしても「姫塚」に行きたくて、地元の人に道を聞きつつ山林の中を突き進みましたが、元は田んぼだったというその場所は想像以上に藪化していて、密生する小竹の藪にはばまれ、とうとう到達を断念してしまいました。こんな体たらくじゃ「ヤブレンジャー」失格というところですが、悲劇の姫は誰にも邪魔されずに、静かに眠りたかったのかも知れません・・・。代わりに、というわけでもないですが、隣の古茂口集落の福生寺にあるこの姫のお墓に参詣しました。いずれ、機会があったらもう一度「姫塚」にチャレンジしてみたいところです。