里見義弘が在城と伝わる

大戸城

おおとじょう Ooto-Jo

別名:登城

千葉県君津市大戸見

城の種別 山城

築城時期

不明

築城者

不明(里見義実?)

主要城主

宮本氏、鎌田氏、里見氏、大野氏

遺構

曲輪、堀切

小櫃川に面した大戸城<<2003年03月23日>>

歴史

築城時期等は不明。長享二(1488)年頃、里見義実の創建ともいわれるが、里見氏がこの時期にこの地域に勢力を持っていたかどうかは不明。あるいは、天文二十一(1552)年に里見義堯配下の二条若狭守が築いたともされるが、もっと以前より築かれていたと見られる。天文二(1533)年には里見氏の内乱「天文の内乱」が勃発したが、この頃には里見義豊方の宮本宮内、鎌田源六が在城したとされる。

弘治元(1556)年、里見義弘が佐貫城に移るまでの間の一時期、里見義弘が大戸城に在城していたといわれるが、実は千本城にいたのではないか、という説もある(「新編房総戦国史」)。

天正十八(1590)年の小田原の役当時は、大野山城守、大野駿河守が城代として在城していたが、里見氏の上総召し上げによってこの地は久留里城に入城した大須賀氏の所領となり、大戸城も廃された。

里見義弘は弘治元(1556)年には佐貫城を本拠にしていますが、それ以前の一時期、大戸城に在城していたらしいと言われています。だとすれば、きっと千本城などとともに父・義堯の本拠地である久留里城の背後を固める役割を担ったことでしょう。しかし大戸城はあまり大きなお城ではないため、実際には義弘は千本城にいたのではないか、とも言われています(「新編房総戦国史」)。

ところでこの大戸城をめぐっては、常陸国に残された古文書に記載があるそうです。これは義堯の死後(天正二年没)、里見義弘の弟、義政が常陸に移り住んだためで、そこには義弘と義政の争いが潜んでいるらしいです。義弘が当時、佐貫城主であったころ、義政が城代として久留里城を預かっていましたが、義政という人はなかなか名声が高かったようで、義弘はそんな義政を疑念をもって見るようになったといいます。義政は他心なくとも身の危険を感じて、常陸国行方郡に去り、井関氏を名乗ったそうですが、その地で残された文書「井関弥五兵衛義方家蔵本」に大戸城に関する記載がちょっとだけですがあるそうです(「久留里城誌」)。里見氏は天文の内乱、天正の内乱(梅王丸騒動)という、前後二度にわたる内訌がありましたが、もしかしてひょっとすると「もうひとつの天正の内乱」が勃発する寸前だったのかもしれません。義弘は養子(あるいは庶子長男)の義頼だけでなく、弟の義政とも相続をめぐりゴタゴタしていたようです。実際に戦闘があったかどうかは不明です。

大戸城のある場所は、周囲を小櫃川の急流が裾を洗う半島状台地となっていて、平時は久留里街道を監視する絶好の場所にあります。小櫃川は近世に川回し(河川の流路変更)が行われたため、城域の北側の川は今は流れておらず、低湿な荒地となっていますが、かつては三方を河川に囲まれた、攻めるに固く守るに易い、堅固なお城であったことでしょう。

小櫃川の急崖に面する大戸城「と城(外城)の台」。手前はのんびりローカル線の久留里線。大戸城はかつては三方を小櫃川に囲まれた要害でしたが、江戸期の川回しで北側は河道のみが残っています。 南側の畑から見上げる大戸城。こんもりした丘ですがどこも急斜面、この畑方面から頂上の小さな祠に向けて、細い道が通じています。この平坦な畑も、当時はお城の一部だったんでしょうね。
登り口付近の切通しのような道。小櫃川旧河道方面から台地に向かう道だったのでしょうか。 ちょっと登ると腰曲輪、というか馬蹄段状の小さな削平地があり、小さな祠が祀られていました。
右上写真の祠の背後には大きな堀切が。明瞭な遺構に乏しいこのお城では最大の見所といえるのではないでしょうか? 主郭には小さな祠が建つ以外は山林化しています。「日本城郭大系」に記載のあった長方形の土壇などは見当たりませんでした。
主郭の南側斜面には三条ほどの「竪堀?」な地形が。ここに竪堀ってのも不思議なのですが、いかにも連続竪堀に見えるのですよ。 主郭東側は一段低い曲輪があり竹薮に。南側斜面には腰曲輪と見られる削平地が複数あります。

 

 

交通アクセス

館山自動車道「姉崎袖ヶ浦」ICより車50分。

JR久留里線「上総松丘」駅徒歩20分。

周辺地情報

附近の千本城が見ごたえがありますがやや危険。安全に見学できるのは久留里城

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「久留里城誌」(久留里城再建協力会)

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

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