里見義弘は弘治元(1556)年には佐貫城を本拠にしていますが、それ以前の一時期、大戸城に在城していたらしいと言われています。だとすれば、きっと千本城などとともに父・義堯の本拠地である久留里城の背後を固める役割を担ったことでしょう。しかし大戸城はあまり大きなお城ではないため、実際には義弘は千本城にいたのではないか、とも言われています(「新編房総戦国史」)。
ところでこの大戸城をめぐっては、常陸国に残された古文書に記載があるそうです。これは義堯の死後(天正二年没)、里見義弘の弟、義政が常陸に移り住んだためで、そこには義弘と義政の争いが潜んでいるらしいです。義弘が当時、佐貫城主であったころ、義政が城代として久留里城を預かっていましたが、義政という人はなかなか名声が高かったようで、義弘はそんな義政を疑念をもって見るようになったといいます。義政は他心なくとも身の危険を感じて、常陸国行方郡に去り、井関氏を名乗ったそうですが、その地で残された文書「井関弥五兵衛義方家蔵本」に大戸城に関する記載がちょっとだけですがあるそうです(「久留里城誌」)。里見氏は天文の内乱、天正の内乱(梅王丸騒動)という、前後二度にわたる内訌がありましたが、もしかしてひょっとすると「もうひとつの天正の内乱」が勃発する寸前だったのかもしれません。義弘は養子(あるいは庶子長男)の義頼だけでなく、弟の義政とも相続をめぐりゴタゴタしていたようです。実際に戦闘があったかどうかは不明です。
大戸城のある場所は、周囲を小櫃川の急流が裾を洗う半島状台地となっていて、平時は久留里街道を監視する絶好の場所にあります。小櫃川は近世に川回し(河川の流路変更)が行われたため、城域の北側の川は今は流れておらず、低湿な荒地となっていますが、かつては三方を河川に囲まれた、攻めるに固く守るに易い、堅固なお城であったことでしょう。