内乱に滅びた前期里見氏の本拠

稲村城

いなむらじょう Inamura-Jo

別名:

千葉県館山市稲

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

文明十八(1486)年頃

築城者

里見氏

主要城主

前期里見氏歴代 

遺構

曲輪、堀切、土塁、切通し、虎口、横穴墓、井戸等

城下の滝川から見た稲村城全景<<2002年02月24日>>

歴史

安房里見氏初代の里見義実が白浜城に拠って安房一国を統一してから、長田城へ、そして安房一国の統治のために、国衙に近く交通・生産の要衝でもあるこの地に移って築城、二代成義(実在疑問)の時代に完成したと言われる。この間の経緯は一級史料に乏しく軍記物だけが頼りで定かではない。三代(実際は二代か)の義通の頃には里見氏の本拠となっていたことは確実である。天文二(1533)年、里見氏当主の義豊は稲村城に正木通綱と叔父の里見実堯を召還し誅殺、これに対して実堯の子・義堯、通綱の子・時茂が北条氏を後楯に造海城に立て籠り、里見家を二分する内乱となった。義豊軍は妙本寺付近の合戦に破れ滝田城に撤退、滝田城も陥とされると真里谷城の武田信保(入道恕鑑)を頼って上総に落ち延びた。翌年、上総の援兵を得て稲村城襲撃のために平久里街道を南下中、滝田城下の犬掛で里見義堯軍と遭遇し大合戦となり、義豊軍は敗走、義豊は討ち取られて首級は小田原の北条氏綱のもとに届けられた。この結果、里見氏の嫡流は途絶え、義堯を祖とする後期里見氏の流れが始まった。稲村城は程なく廃城となり、義堯は滝田城を経て上総久留里城へと進出した。

里見氏が安房一国を統一した本拠であったと同時に、里見氏の歴史にとって大きなターニングポイントとなった「天文の内乱」の舞台になりました。この天文の内乱については、軍記物などの記述されている内容が事実と大幅に違うことが判明、結果的に嫡流を滅ぼすことになってしまった後期里見氏がその行為の正当化のために歴史を改竄していることがほぼ明らかになりました(「さとみ物語」館山市立博物館 等)。軍記物では、里見義通の死にあたり、嫡子義豊が幼少であったため、義豊が成人するまでの政務を弟の実堯に委ね、実堯は稲村城に、義豊は宮本城に在城したことになっています。そして、義豊が成人しても国を譲る気配が無いことから、多くの家臣の反対を振り切って、義豊が稲村城を急襲、実堯と重臣の正木通綱は事態が掴めぬまま自刃、義豊が稲村城を掌握した、しかし当時久留里城にいた実堯の子・義堯が反撃、犬掛合戦で義豊を破り、義豊は滝田城から落ち延びる途中で木の根に躓いて崖から転落、重傷を負って自刃した、というような展開です。この間には義豊の側室・倉女(くら)をめぐる悲話などもあり、お話としては非常に面白いものです。

史実としての内乱の経緯は上記「歴史」に記述したとおりですが、ではなぜこの内乱が発生したのでしょうか?これは、里見家当主の義豊が、その成敗権を行使して、国内を二分する勢力に成長した実堯・通綱を倒すことで権力の集中化を狙ったものであるようです。正木氏は「家臣」というよりも安房東部から内房にかけて勢力を持つ同盟者的な存在で、また内房地域は内房正木氏を中心に元来、対岸の相模北条氏の影響を強く受けており、その支配にあたった実堯も自然と北条氏との接点が生まれたのでしょう。実堯に北条氏と通牒する意図があったかどうかは不明ですが、当時北条氏と対立し、小弓公方に属していた義豊としては、実堯が北条氏と通牒し、正木氏と語らって力を合わせれば自らの地位が危うくなるほどの勢力に発展することを恐れたのでしょう。結果的にはこの誅殺行為が逆に命取りとなり、義豊は敗死、里見氏の嫡流が途絶えることになってしまいます。こうして里見氏の家督を手にした義堯が、北条氏を見限って四十年にも渡る抗争を繰り広げ、常陸の佐竹氏と並んで北条氏に対抗する関東有数の戦国大名に発展するのだから、歴史とは皮肉なものです。

稲村城はこの前期里見氏の本拠地であり、後期里見氏の代になってほどなく廃城となったと言われるため、戦国前期の遺構をよく残していると言われます。ただ、僕個人としては本当にそんな初期に廃城になったかどうかは疑問が残ります。築城様式が古いことについては、稲村城に限らず里見氏系城郭の共通した特徴であるし、第一、ここを廃城にしてしまっては里見氏の本貫地である安房支配の拠点がなくなってしまいます。だから、大幅な改修が行われることは無かったにせよ、岡本城が改修される元亀元年頃までは、城代を置いて存続していたのではないでしょうか?

【再訪:2003.09.28】

一泊オフ「安房里見氏と青岳尼ツアー」で再度訪れました。時期が悪かったのか、以前は綺麗に草刈がされていた主郭附近は背丈ほどの雑草が覆い茂っていました。しかし、今回初めて主郭北東の支尾根を歩いてみたところ、堀切や土橋、竪堀状の遺構など、なかなか優れた遺構群を見ることができました。やっぱりこのお城、面白いなあ!

滝川河畔から見る稲村城。比高40mあまり、決して要害地形とはいえないものの、安房の要地を押えるなかなかの立地と見ています。 東の水往来入り口近くの「城井戸」。民家が建ち並ぶので見学の際は迷惑にならないように・・・

「東の水往来」。「水往来」という言葉の語源はよくわかりませんが、長い切通しの通路になっていて、城道と空堀を兼ねています。里見系城郭に多い手法ですね。水路も兼ねていたのかな? 水往来の切通しには、人為的に補強されたと見られる石組みも。これも造海城佐貫城などで見られる技法と類似してます。

水往来最頂部の中郭部虎口。切通しの食い違い虎口になっています。ここから尾根上に上がります。 水往来東側の尾根下にあった横穴墓。いわゆる「ヤグラ」です。主郭近くにもあります。

中郭部にある「正木様」。江戸期に帰農した正木氏の末裔が先祖を祀ったものだとか。 西の水往来。東の水往来と同じく、切通しの長い坂道になっています。

中郭部の腰郭群。ある意味、このお城の特徴を決定付けている遺構とも言えるでしょう。殆どが畑になっていますが、細い尾根の両側の斜面を多くの腰郭が埋めています。なかには城戸のような形状のもの、切通し状の通路、水路状の溝などもあり、石組みも見られます。どこまでが遺構で、どこまでが農地化に伴う改変なのか分かりませんでしたが、地形そのものはほぼ残っているのではないでしょうか。

主郭と中郭を隔てる大堀切。堀切断面にも補強したと見られる石組みがありました。 わずかに枡形の形状を見せる、主郭の坂虎口。こういう構造が古さを感じるんだろうな。

広い主郭部。痩せ尾根上に「版築」と言われる技法で盛り土を行って平場を作り出しているとのことで、築城当時の戦国初期としては高度な技法が使われていたようです。 主郭よりの光景。滝川、平久里川が作り出す肥沃な大地と、滝田城に近い旧安房国府方面、館山城に面する鏡ヶ浦(館山湾)方面まで眺望が利きます。

主格の東側には比較的大きな土塁があります。 北東の支尾根に向かう虎口らしき場所。搦手にあたるんでしょうか?とりあえず行ってみましょう。

北東支尾根の堀切。堀切そのものの深さは大したことがありませんが、塁壁からの比高差が大きいためかなり大きい堀切に見えます。 尾根上から覗いてみた堀切。堀切は通路に繋がっているようで、主郭南東の主尾根堀切附近まで細い道が通っています。

北東支尾根をさらに進むと、竪堀状の堀切が現れます。これもなかなか見どころのある遺構です。 しかもこの堀切、ところどころに石積みの痕跡が見られます。周囲の枯れ草の下にもかなりの石があるようです。

北東支尾根の堀切をまたぐ土橋。これまたしっかり明瞭な遺構です。この支尾根、なかなか良いですぞ! 稲村城南東、里見義豊の首級を埋めたと伝わる「水神の森」伝承地。背後の丘は稲村城の峰続き。この他周囲には「鎌田ヶ淵」「腰越の狐塚」など、内乱伝承地がたくさんあります。
城址は「稲村城跡を保存する会」を中心とした地元の人々によりよく整備されていて、それほど険しい場所も無いため、家族連れでも安心して見学できそうです。できれば国道からの案内標示も欲しいですね。

 

交通アクセス

館山自動車道「木更津南」ICより車90分

JR内房線「九重」駅徒歩10分

周辺地情報

犬掛合戦の舞台となった滝田城、里見氏最後の居城となった館山城、その他にも宮本城岡本城など里見氏ゆかりの城郭がたくさんあります。

関連サイト

館山市ホームページ。城址の保護に当たっては稲村城跡を保存する会の活躍が非常に効果的であったそうです。感謝感激。

 
参考文献

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」( 川名登 編/図書刊行会)

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会

「千葉城郭研究第4号 小特集・稲村城跡をめぐる諸問題」(千葉城郭研究会)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

現地解説板

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭里見ねっとわーくさとみのふるさと(館山市立博物館)

 

埋もれた古城 表紙 上へ