無念、兄の城を守りきれずに

葛ヶ崎城

くずがさきじょう Kuzugasaki-Jo

別名:葛崎城、轡崎城、浜荻要害

千葉県安房郡天津小湊町天津

 

城の種別 海城

築城時期

不明

築城者

不明(真里谷氏?)

主要城主

東条氏、角田氏

遺構

曲輪

荒浪押し寄せる葛ヶ崎城<<2002年09月01日>>

歴史

築城時期等は不明。もともとは天津城の支城として築城され、その後真里谷武田氏の属城となったと考えられる。天文十一(1542)年に正木時忠が勝浦城に入城してからは、その配下の東条氏の一族が在城したとみられる。

天正八(1580)年七月からの正木憲時と里見義頼の抗争(正木憲時の乱)では、城主の角田丹後守一明が岡本城に出仕している隙を衝いて正木憲時が攻め落とし、角田丹後守の弟、丹波守一元が奮戦の末討ち死にし、葛ヶ崎城は落城したという。しかし、里見義頼軍が岡本城から出撃したとの報に、憲時は軍を退いて大多喜城へ退却したという。また、当時の妙本寺住職・日我の書状には「浜荻要害」として表れる。この里見義頼による葛ヶ崎城の奪還後、正木憲時は天正九(1581)年九月二十九日、大多喜城内で家臣の寝返りにより殺害され、乱は平定された。葛ヶ崎城もほどなく廃城となったと思われる。

安房天津駅の南西に突き出た岬に、ふたつのピークを持つ独特の山が見えます。これが葛ヶ崎城です。ここは天津側の二間川の河口と、浜荻漁港・鴨川の海岸線を見渡せる、なかなか絶好のロケーションにあります。この両岸に軍港を控えていた典型的な海城です。本来的には天津城の支城だったということですが、天津城そのものの歴史がよくわからない点が多いので、その点はとりあえず置いておきます。

ここが戦場になったのは、「正木憲時の乱」のときのこと。「房総里見軍記」などの軍記物の記述なのでどこまで本当かはわかりませんが、兄・角田丹後守一明に葛ヶ崎城の留守居を任された角田丹波守一元と、その嫂の壮絶な落城悲話が伝わっているので紹介しておきます。

里見義頼に叛旗を翻した正木憲時は、まず興津城を拠点に、安房東岸から長狭地方の制圧へと動きます。その血祭りに上げられたのがこの葛ヶ崎城。城主の角田丹後守一明が岡本城に出仕している隙を衝いての攻撃でした。その兵数は七百。城代を任された弟の丹波守一元はおりしもオコリによって病臥に伏していました。しかも兵数は百と圧倒的に不利。「兄者の期待に応えられずに城を捕られることの辛さよ」丹波守一元は無念の涙を流します。と、そこに兄・一明の内室が「わたくしがこの城に残ります故、丹波殿は殿の一子を連れて、どうぞ岡本城まで落ち延びて下さりませ」と丹波守一元の脱出を勧めた。しかし、一元とて、いかに病とはいえ兄に任された城を棄て、嫂を見殺しにして逃げ延びるほど漢が廃れてはいなかった。「いざ、ともに城を枕に討ち死にせん」、嫂は緋色の玉たすきを掛けて薙刀を振い、丹波守一元も栗毛駒にまたがってここを先途と斬りまくり、憲時の旗本までも切り崩したが所詮は多勢に無勢さらに病の身、十二人までを斬って棄てたところで力尽き、十五本の槍を全身に受けて二十八歳を一期に壮絶な討ち死にを遂げたという・・・。

この話を信じるかどうかは別として、現在城下の入り組んだ小路の脇に、ドラム缶ほどの大きさの角田丹後守(なぜか、ここにいなかったアニキの方)のお墓が建っています。

実際には、憲時の挙兵に対して義頼は迅速に長狭を制圧、金山城将の正木石見守を追い払い、「はまをき要かいをとりもたれ」(『椙山文書』天正八年十一月日付日我書状)たということから、憲時の占拠はごく一時的なものだったかもしれません。

遺構面ではあまり明瞭なものは無く、二つの丘陵に挟まれた谷戸が居館と云われてきましたが、発掘調査ではそれを裏付けるものはなく、むしろ北東側の段丘上が居館であろうと考えられているようです。この谷戸にはなにやらログハウス風の建物が建てられ、一応は公園になっているようです。谷戸の中の地形には段々がありますが、これが曲輪を示すものなのかどうかはわかりません。また、ふたつの丘のうち、城郭遺構が認められるのは西側のみらしいですが、こちらには取り付く道が見つからず、確認していません。東側の海に面した丘には登ってみましたが、ほとんど自然地形のまま、頂上に小さな祠があるほかは、お城らしい遺構は見つけられませんでした。強いていえば、周囲の急斜面が削崖なのかどうか、という程度です。ただ、ここから見る景色は素晴らしいの一言。特に、緩やかな曲線を描く鴨川附近の浜と、キラキラ輝く凪いだ海の姿は絶景でした。

天津集落寄り、二間川から見る葛ヶ崎城。双子の丘が目立ちます。この河口付近も軍港「不入港」でした。この日は正木憲時が城下に放火したらしく、白煙が上がっていました。 荒浪打ち寄せる海岸線より、風雲急を告げる葛ヶ崎城。この写真撮ってるとき、いつ波にさわられるかとマジで恐かった。内房と違ってモロに外海に面しているので、波の荒さも半端ではない。
とりあえず登ってみた東側の丘。小さな祠があるほかは削平地らしいものもなし。ただ、相当な眺望が得られるのは確かなので、烽火台や物見として使われていたことでしょう。 東丘から見下ろす谷津。この谷津が居館とされてきましたが、裏づけはなく、むしろ前面の段丘のほうがそれであった可能性が高いようです。
東側、天津寄りの海岸線を見る。中央付近が一応本城とされている天津城です。 西側の鴨川の海岸線は本当に美しい。手前の浜は浜荻港、このお城はこの浜荻港を意識して築城されたものであるようです。
谷津の中は公園造成中といった感じで、一応段々の地形がありますが、これが曲輪なのかどうかはわからない。なにやらログハウスのようなものが建てられていました。 入り組んだ路地の裏にある角田丹後守のお墓。どちらかというと、壮絶な討ち死にをした弟・丹波守の方のお墓を建ててあげたい気持ちになります。

 

 

交通アクセス

千葉東金有料道路「東金」ICより車80分。

JR外房線「安房天津」駅徒歩15分。

周辺地情報

近くの日澄寺が天津城跡とのことですが、よくわかりませんでした。

関連サイト

 

 
参考文献等

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登 編/図書刊行会)

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「房総里見水軍の研究」(千野原靖方/崙書房)

「中世城館調査報告書」(千葉県天津小湊町)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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