安房天津駅の南西に突き出た岬に、ふたつのピークを持つ独特の山が見えます。これが葛ヶ崎城です。ここは天津側の二間川の河口と、浜荻漁港・鴨川の海岸線を見渡せる、なかなか絶好のロケーションにあります。この両岸に軍港を控えていた典型的な海城です。本来的には天津城の支城だったということですが、天津城そのものの歴史がよくわからない点が多いので、その点はとりあえず置いておきます。
ここが戦場になったのは、「正木憲時の乱」のときのこと。「房総里見軍記」などの軍記物の記述なのでどこまで本当かはわかりませんが、兄・角田丹後守一明に葛ヶ崎城の留守居を任された角田丹波守一元と、その嫂の壮絶な落城悲話が伝わっているので紹介しておきます。
里見義頼に叛旗を翻した正木憲時は、まず興津城を拠点に、安房東岸から長狭地方の制圧へと動きます。その血祭りに上げられたのがこの葛ヶ崎城。城主の角田丹後守一明が岡本城に出仕している隙を衝いての攻撃でした。その兵数は七百。城代を任された弟の丹波守一元はおりしもオコリによって病臥に伏していました。しかも兵数は百と圧倒的に不利。「兄者の期待に応えられずに城を捕られることの辛さよ」丹波守一元は無念の涙を流します。と、そこに兄・一明の内室が「わたくしがこの城に残ります故、丹波殿は殿の一子を連れて、どうぞ岡本城まで落ち延びて下さりませ」と丹波守一元の脱出を勧めた。しかし、一元とて、いかに病とはいえ兄に任された城を棄て、嫂を見殺しにして逃げ延びるほど漢が廃れてはいなかった。「いざ、ともに城を枕に討ち死にせん」、嫂は緋色の玉たすきを掛けて薙刀を振い、丹波守一元も栗毛駒にまたがってここを先途と斬りまくり、憲時の旗本までも切り崩したが所詮は多勢に無勢さらに病の身、十二人までを斬って棄てたところで力尽き、十五本の槍を全身に受けて二十八歳を一期に壮絶な討ち死にを遂げたという・・・。
この話を信じるかどうかは別として、現在城下の入り組んだ小路の脇に、ドラム缶ほどの大きさの角田丹後守(なぜか、ここにいなかったアニキの方)のお墓が建っています。
実際には、憲時の挙兵に対して義頼は迅速に長狭を制圧、金山城将の正木石見守を追い払い、「はまをき要かいをとりもたれ」(『椙山文書』天正八年十一月日付日我書状)たということから、憲時の占拠はごく一時的なものだったかもしれません。
遺構面ではあまり明瞭なものは無く、二つの丘陵に挟まれた谷戸が居館と云われてきましたが、発掘調査ではそれを裏付けるものはなく、むしろ北東側の段丘上が居館であろうと考えられているようです。この谷戸にはなにやらログハウス風の建物が建てられ、一応は公園になっているようです。谷戸の中の地形には段々がありますが、これが曲輪を示すものなのかどうかはわかりません。また、ふたつの丘のうち、城郭遺構が認められるのは西側のみらしいですが、こちらには取り付く道が見つからず、確認していません。東側の海に面した丘には登ってみましたが、ほとんど自然地形のまま、頂上に小さな祠があるほかは、お城らしい遺構は見つけられませんでした。強いていえば、周囲の急斜面が削崖なのかどうか、という程度です。ただ、ここから見る景色は素晴らしいの一言。特に、緩やかな曲線を描く鴨川附近の浜と、キラキラ輝く凪いだ海の姿は絶景でした。