土気酒井氏の居城

土気城

とけじょう Toke-Jo

別名:貴船城

千葉県千葉市緑区土気町

 

城の種別

平山城

築城時期

奈良時代  

築城者

大野東人、酒井定隆

主要城主

土気氏、畠山氏、土気酒井氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、切通し

「クラン坂」の切通しの道<<2002年03月09日>>

歴史

平安時代の鎮守府将軍であった大野東人が蝦夷に対する備えとして築いた貴船城であるといわれている。鎌倉期には千葉氏一族の相馬胤綱の子・土気太郎が地頭に任ぜられ居住した。戦国期には畠山重康の居城となったが、長享二(1488)年、上総中野城主であった酒井定隆によって追われ、以降土気酒井氏が五代約100年に渡って居住した。土気酒井氏は天文七(1538)年の第一次国府台合戦には小弓公方側として参戦したが、小弓公方足利義明の討ち死にによって北条氏に降った。永禄七(1564)年の第二次国府台合戦では北条氏から里見氏に寝返り、敗走する里見勢を稲毛海岸で護ったが、最終的にはふたたび北条氏に降伏した。天正十八(1590)年の小田原の役では、城主酒井康治は小田原に入城するが、小田原は降伏開城し、土気城は浅野長政らの軍勢の前に開城し、そのまま廃城となった。酒井氏は改易となり絶えた。

上総酒井氏は二回の国府台合戦前後から房総の歴史に度々登場しますが、まだ不勉強で細かいことはわかりません。上総北部を支配した一族で、南方の里見氏、小弓公方、北方の千葉氏(北条方勢力)などに挟まれて、だいぶ苦労してるみたいです。東金酒井氏とは同族ですが、第二次国府台合戦後は東金は北条、土気は里見に着いたようです。とはいっても第二次国府台合戦での里見氏の軍事的ダメージは大きく、上総の北半分はほぼ北条方に制圧されてしまいましたので、土気酒井氏は随分苦しい立場に立ったことでしょう。案の定、数年後には降伏しています。場所的に言うと大網街道に面し、内房と外房を繋ぐ戦略上重要な拠点であると思います。

JALの研修施設が建っているため、主郭付近に立ち入ることはできません。その主郭付近はこの建設によって地形も変わっているようですが、幸いにも外郭部を中心に、遺構はよく原形を留めています。ただ、まるっきり整備はされていないので、折角の空堀が明瞭に見られないのは残念です。圧巻は搦手の方角にあたる「クラン坂」で、非常に高さのある垂直切岸・切り通しが急坂に延々と連なっていて、おもわず「ここ里見氏の城だっけ?」なんて思っちゃいます。しかもこのクラン坂、鬱蒼としていて薄暗い上に中世の横穴墓(おうけつぼ)である「ヤグラ」らしきものが各所に口を開いていて、不気味この上なし。

住宅地のはずれ、道が直角に折れ曲がる大手口。両側には外堀があり、「三の堀」との間で馬出し状の曲輪を形成しています。

左写真の右手の林の中に残る堀。外堀にあたり、折歪みや土塁も確認できます。

上写真左手の民家裏の堀。これも大手馬出しの周囲を廻る堀の一部で、「三の堀」に繋がっています。 三郭虎口両側の「三の堀」。左下の貴船大明神付近です。この奥は外堀に繋がっています。

三郭土塁虎口に建立された貴船大明神。もちろん後世の再建ですが。 三郭虎口付近は土塁がよく残ります。この写真の法面は農地整備のため削られたものでしょう。

特徴的な二郭虎口付近。二重の空堀と土塁で食い違いを形成しています。あるいは小規模な馬出し、とも解釈できます。 二重空堀の三郭寄り、「二の堀」。深さは「一の堀」が最大ですが残念ながら激しい藪でいい写真が撮れず。このあたりは整備さえすれば技巧面でも規模、残存度の面でも見所になるところなのに。

二重土塁に挟まれた食い違い虎口にわずかに残る土塁。 悪気は無いのですが、堀底から上がったらJAL研修センター敷地内に出てしまった(^^;)。敷地内の大土塁。大きな折歪みを伴う。
二郭から主郭にかけては研修センター敷地。幸いにも大規模な破壊は行われていませんが、主郭付近に入れないのが残念無念。 クラン坂付近の柵から主郭方面を見る。ここに柵があって入れないのだ。遠目にも一段高い曲輪と、堀切跡らしいものは見えるのだが・・・

薄暗い急坂に延々と続く切通しの「クラン坂」。切通しは規模が大きく迫力があります。昼なお暗いことが名の由来らしいですが、僕は「蔵の坂」が訛ったものだと思うのですが。 「ヤグラ」と想像される構造物。ヤグラとは横穴式の墓のことで、鎌倉地方の方言で「岩蔵」が訛ったものだとか。とすれば「クラン坂」とは「ヤグラの坂」「岩蔵の坂」か。いずれにせよ、薄暗さと切通しの迫力とも相まって不気味さ満点。
切通しの一部は土塁状になっていて、そこに登ってみると目の前は深い谷。これは要害だ! クラン坂の下は堀が三叉路になっています。これは「井戸沢曲輪」方面に向かう横堀。見事なんだが、不法投棄のゴミの多さに閉口。

外房線の線路を越えて、狭く奥深い谷津に入る。ここは昔は湿地だったらしい雰囲気が残っています。写真右が土気城跡、左の橋は外房線の線路。この道の先は細く曲がりくねって、大網白里町の金谷郷方面に抜けます。道幅は車一台ギリギリ、カーナビにも出ていない道。最後は畦道に迷い込んでしまい、地元のおじいさんに案内してもらってやっとこの谷津を抜けました。金谷郷付近には立派な土居に囲まれた民家もあり、思わず城主クラスの屋敷か?と思いましたが、民家なので撮影は遠慮しました。
主郭付近に入れないのが残念ですが、遺構は思ったよりよく残っています。残っている遺構をきちんと整備すれば、それなりに見所の多い城だと思うのですが。しかし、クラン坂下の不法投棄の山はいただけない。心ない人間がたくさんいるものです。見つけたら即、打ち首じゃ!

 

 

交通アクセス

東金有料道路「中野」ICから車15分。JR外房線「土気」駅徒歩10分。

周辺地情報

圧倒的に見所の多い大椎城がすぐ近く。

関連サイト

 

 
参考文献 「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭千葉市の遺跡を歩く会

 

埋もれた古城 表紙 上へ