安房里見氏発祥の地、であります。軍記物では、結城合戦を落ち延びた里見義実が、神余・丸・安西・東条氏の四氏が分立する安房を瞬く間に統一し、返す刀で上総をも斬り取ったことになっていますが、このあたりは一級史料が皆無に等しく、そのまま鵜呑みにすることはできません。現在有力視されている説としては、享徳の大乱に際して、上杉方の領所であった上総・安房を簒奪するため、古河公方・足利成氏の命で武田信長が上総に、里見義実が安房にそれぞれ派遣された、という説。たしかに、軍記物の説では、落ち武者同然の義実が安房一国を統一するほどの信望も軍事力も持ち合わせている筈も無く、源頼朝が安房で再起を決した史実になぞらえて、里見氏の出自を飾ろう、とする意図が見えてきます。この義実から始まる里見氏嫡流は「天文の内乱」で途絶え、里見義堯から始まる「後期里見氏」によって歴史が改竄されていますので、この前期里見氏については分からないことばかりのようです。とにかく、史実の確認は難しいものの、義実が実在した人物であり安房里見氏の初代と目されること、そしてその始めの拠点がここ白浜だったことは、多くの研究者も認めているようです。
白浜城は房総半島最南端の野島崎を眼下に望む急峻な山上に築かれていて、外房と内房を結ぶ海上交通を取り締まるには絶好の場所でした。第二次大戦中に米軍の上陸に備えて地形が改変されていたり、関東大震災で崩落していたりで地形はかなり変化しているようですが、それを差し引いても目立った防御施設に乏しく、天然の地形のみを頼りにした旧いタイプの城郭であることがわかります。北側の斜面には多くの腰曲輪があり、それなりに規模は大きな城なのですが、いわゆる堀切・土塁・削崖など、城郭遺構の定番ともいえる遺構は殆ど見当たりません。櫓台跡、といわれる削平地がいくつかありますが、そもそも黙っていても見晴らしのいいこの山の上に櫓を建てる意味があるのか?という疑問もあります。建ててもきっと海風ですぐ倒壊しそうだし。腰曲輪の削平地と、虎口の切通し以外は、自然の地形そのまま、と見てもいいようです。
この白浜城は里見氏の安房統一と上総進出によって廃城となったと言われていますがそれはどうでしょうか?前述のとおり、内房と外房を結ぶ海上交通監視には絶好の場所でもあり、里見氏が稲村城、あるいは上総久留里城方面へと進出した後も、城代支配によって使われつづけたのではないでしょうか。一説には、里見義豊が稲村城で家督を相続後、父の義通は隠居所として白浜に拠ったともいわれ、また城址直下の青木観音堂には、永禄期に「源民部大輔」が「賓頭盧尊者坐像(びんずるそんじゃざぞう)」を寄進しています。この「源民部」とは、里見義豊の子であると言われ、後期里見氏の中にあっても一門としておもに外交にあたっていたとも言われる人物です(「さとみ物語」館山市立博物館)。とすると、天文の内乱で義豊を死に追いやった後、その子は一命を救って一門として扱い、その所領にこの白浜を充てた、とは考えられないでしょうか?「城の形態が古い」ことが早期廃城の証拠のように言われますが、里見氏の城郭作りに対するコンセプトはそもそも鎌倉〜南北朝期の山城に近い原始的なものが多く、築城様式が古いだけでは廃城の証拠にはならないような気がします。大きな改修が加えられなかったのは、北条氏との抗争の時代を通じても、本貫地である安房には絶対的な国防ラインがあり、それを侵される不安が無かったからだ、とも取れます。