時代の変わり目に散った坂東武者の館

難波田氏館

なんばたしやかた Nanbatashi-Yakata

別名:難波田城

埼玉県富士見市下南畑

(難波田城公園)

城の種別

中世武士館〜戦国期平城

築城時期

不明(平安末期〜鎌倉初期)

築城者

金子(難波田)小太郎高範

主要城主

難波田氏、上田氏

遺構

曲輪、土塁、水堀

公園内に復原された水堀と土塁<<2002年8月17日>>

歴史

難波田氏は平安時代の武士団「武蔵七党」のひとつ、村山党に属する金子小太郎高範を祖とし、鎌倉時代に難波田の地を与えられたことから難波田氏を名乗った。 

南北朝時代、足利尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」では、難波田氏は直義側につき、難波田九郎三郎は観応二(1351)年十二月十九日、羽祢蔵(志木市)で高麗経澄と戦い討ち取られたことが「高麗経澄軍柱状」に見える。

戦国期には難波田氏は河越城を居城とする扇谷上杉氏に仕え、小田原城を本拠とする北条氏の武蔵侵攻に対峙した。北条氏綱は大永四(1524)年の高縄原合戦で扇谷上杉朝興を破り、太田資高の寝返りもあって江戸城の奪取に成功、武蔵進出の足がかりとする。享禄三(1530)年の小沢原合戦などで北条氏綱・氏康父子が勝利し、扇谷上杉氏は苦境に立たされた。

天文六(1537)年四月二十七日、扇谷上杉朝興は河越城で死去、朝定が跡を継いだ。上杉朝定は難波田広宗に命じて深大寺城を整備するが、北条氏綱は直接河越城に進撃、三ツ木で朝定の叔父、朝成を破り、上杉軍は総崩れとなり、河越城を捨てて松山城に退却した。氏綱は松山城まで追撃戦を行い、平岩隼人正重吉が上杉朝成を生け捕るなどの戦功を挙げたが、城代を務めた難波田弾正憲重(善銀)らの奮戦で落城には至らなかった。このときに寄せ手の山中主膳と有名な「松山城風流合戦」の挿話を残した。

河越城奪回を目論む扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと結んで、天文十四(1545)年、北条綱成の守る河越城を八万とも言われる大軍で包囲するが、翌天文十五(1546)年四月二十日の北条氏康の奇襲戦で敗北、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に落ち延びた(河越夜戦)。難波田弾正憲重も奮戦するが、古井戸に落ちて凄惨な討ち死にを遂げた。

難波田弾正憲重の死後は難波田氏は北条氏の傘下となり、難波田城松山城の上田氏一族の上田周防守に与えられ、大々的な改修を受けて現在見られる戦国期平城形式となった。

天正十八年の小田原の役では難波田憲次は松山城に在番したが、前田利家らの北方軍に攻められ降伏開城し、憲次は利家の軍に先手として加わった。難波田城も降伏開城し廃城となった。江戸期には修験寺院の十玉院が建立された。

難波田弾正は扇谷上杉家中きっての文武兼ね備えた勇将で、扇谷上杉氏の柱石とも言える存在でした。北条氏綱に河越城を追われて追い詰められた若き主君、扇谷上杉朝定を守って闘った松山城攻防での「風流歌合戦」など、いかにも坂東武者らしいエピソードが残ります。その難波田弾正も、扇谷上杉氏が滅亡し、関東管領上杉憲政が関東を追われるきっかけになった運命の「河越夜戦」で、古井戸に落ちて討ち死にするという、なんとも痛ましい最期を遂げてしまいます。その後の北条氏の破竹のごとき関東席捲はご存知のとおりです。滅びゆく関東の旧勢力に殉じて散ったいった難波田弾正は「最後の坂東武者」のひとりだったかも知れません。

その後、難波田氏は北条の傘下に入り、難波田氏館は北条の属城として大々的に改修され、「館」というよりも完全な「戦国期平城」へと進化します。もともとは「本城」を中心とした単郭の武士居館だったのでしょうが、今、「難波田城公園」として目にすることができるのは、その戦国期の平城の姿です。このあたりの「方形武士館から戦国期平城へ」の変化は、菅谷館など、多くの平城で目にすることができる進化です。

場所的には荒川支流の入間川と新河岸川に挟まれた自然堤防上、海抜6m前後の超低地上の微高地に築かれており、周囲は今でこそ新興住宅街や美田に囲まれていますが、もともとは蓮田や葦の覆い茂る湿地帯で、それらを最大の防御の要にしていました。復原された公園の外に一歩出ても、アオコの繁殖する湿地や、周囲の田よりさらに一段低い水田などもあって、かつての堀跡を忍ばせます。

現在の「難波田城公園」は、この戦国期の平城の姿を復原した「城跡ゾーン」と、古民家を移築した「古民家ゾーン」その間に「難波田城資料館」を備えた、総合歴史公園となっています。この「城跡ゾーン」は、現存遺構というよりも、古絵図をもとにかなりの規模で復原整備されたもので、少なくとも公園内には現存遺構はほぼ無いと言ってもいいでしょう。しかも、主郭である本城は新興住宅地のためほぼ潰滅し、現在復原されているのはかつての難波田城の南半分のみ、と言ってもいいでしょう。ただ、都心に一時間弱という絶好のベッドタウンにありながら、古い館跡を史跡として整備したことは充分評価に値するでしょうし、半分だけでも復原されていることは喜ぶべきことでしょう。確かに、実際に見学してみて、あまりにも整備されすぎていて「食い足りない」感覚は否めません。古民家の移築や復原整備された「城跡ゾーン」についても、賛否両論はあるでしょう。しかし、僕は前述の通り、この時代に半分だけでも復原されたことを素直に評価しますし、子供から大人まで、いわゆる「マニア」でない人まで対象を拡げて歴史に触れられる空間を作ったことは、素晴らしいことだと思いますね。

遠景、と言っても平城なので、あんまり遠くからじゃ写真になりません。写真中央の一段低い田は水堀の跡です。 南側から見ると、「古民家ゾーン」が正面に見えます。大澤家住宅、金子家住宅、鈴木家表門などが移築されています。僕はイマイチ専門外ですが、好きな人にはたまらないでしょう。
古民家ゾーンから「難波田城資料館」を経由して「城跡ゾーン」へ。「ゾーン」てのはちょっと勘弁して欲しいですが、水堀、土塁などが要領よく復原されています。 棟門形式の模擬大手門。ここから「曲輪4」に入ります。

「曲輪3」の食い違いの土塁虎口。こういうものがきちんと復原されて、解説もあるというのは貴重だと思うのですがどうでしょうか?

模擬冠木門形式の東門付近には、難波田城の解説や「松山城風流合戦」の絵図があります。

「曲輪2」は「本城」前面の馬出し曲輪。なおここで「曲輪2」と言っているのは「二郭」という意味合ではなく、あくまで公園化された部分の名称です。

主郭である「本城」は大部分が宅地化され、写真の石碑と模擬冠木門(本城門)が建つのみです。

横矢のかかった水堀。

資料館は「まあこんなもんかな」という程度ですが、写真の難波田城復原模型、古絵図、ビデオ上映などはなかなか面白い。撮影も自由です。

公園内に残る十玉院の墓地。ここだけ私有地で入れません。江戸期の修験寺院の名残です。

公園周囲にもご覧のようなアオコの群生する堀跡、土塁の残欠などが散在します。が、多分そう遠くないうちに消えていく運命なのでしょう。

資料館も無料だし、駐車場はあるし、何より夏でも藪こぎしないで済むってところが有り難いです。

 

 

交通アクセス

関越自動車道「所沢」ICより車15分。

東武東上線「鶴瀬」駅よりバスまたは徒歩30分。

周辺地情報

所沢インターのすぐそばの滝の城、川越方面なら言わずと知れた川越城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地パンフレット

参考サイト

 

 

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