難波田氏は平安時代の武士団「武蔵七党」のひとつ、村山党に属する金子小太郎高範を祖とし、鎌倉時代に難波田の地を与えられたことから難波田氏を名乗った。
南北朝時代、足利尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」では、難波田氏は直義側につき、難波田九郎三郎は観応二(1351)年十二月十九日、羽祢蔵(志木市)で高麗経澄と戦い討ち取られたことが「高麗経澄軍柱状」に見える。
戦国期には難波田氏は河越城を居城とする扇谷上杉氏に仕え、小田原城を本拠とする北条氏の武蔵侵攻に対峙した。北条氏綱は大永四(1524)年の高縄原合戦で扇谷上杉朝興を破り、太田資高の寝返りもあって江戸城の奪取に成功、武蔵進出の足がかりとする。享禄三(1530)年の小沢原合戦などで北条氏綱・氏康父子が勝利し、扇谷上杉氏は苦境に立たされた。
天文六(1537)年四月二十七日、扇谷上杉朝興は河越城で死去、朝定が跡を継いだ。上杉朝定は難波田広宗に命じて深大寺城を整備するが、北条氏綱は直接河越城に進撃、三ツ木で朝定の叔父、朝成を破り、上杉軍は総崩れとなり、河越城を捨てて松山城に退却した。氏綱は松山城まで追撃戦を行い、平岩隼人正重吉が上杉朝成を生け捕るなどの戦功を挙げたが、城代を務めた難波田弾正憲重(善銀)らの奮戦で落城には至らなかった。このときに寄せ手の山中主膳と有名な「松山城風流合戦」の挿話を残した。
河越城奪回を目論む扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと結んで、天文十四(1545)年、北条綱成の守る河越城を八万とも言われる大軍で包囲するが、翌天文十五(1546)年四月二十日の北条氏康の奇襲戦で敗北、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に落ち延びた(河越夜戦)。難波田弾正憲重も奮戦するが、古井戸に落ちて凄惨な討ち死にを遂げた。
難波田弾正憲重の死後は難波田氏は北条氏の傘下となり、難波田城は松山城の上田氏一族の上田周防守に与えられ、大々的な改修を受けて現在見られる戦国期平城形式となった。
天正十八年の小田原の役では難波田憲次は松山城に在番したが、前田利家らの北方軍に攻められ降伏開城し、憲次は利家の軍に先手として加わった。難波田城も降伏開城し廃城となった。江戸期には修験寺院の十玉院が建立された。