北条氏綱が高縄原合戦で江戸城を奪取して、扇谷上杉氏の本拠・河越城を虎視眈々と狙っていたのに対し、扇谷上杉氏が古い砦跡を急遽改修して北条氏の侵攻に備えたのがこの深大寺城と言われています。しかし、北条氏は当時16歳の氏康の初陣である小沢原合戦に勝ち、一気に河越城まで侵攻しました。こんな小城など気に留めるほどのものではなかったようです。もっとも、北条氏がこの深大寺城に対する付城として、牟礼・烏山に砦を築いたことが確認されており、この深大寺城での攻防があったことを伝える古文書も存在するらしいです。
武蔵一円が北条氏の手に陥ちた後には、この城には使われていた形跡も無く、たぶんそのまま討ち捨てられ廃城になったのでしょう。この一連の江戸城攻防から河越城攻防までは一方的に北条氏の勝利に終わっており、その後の第一次国府台合戦、そして関東の天王山・河越夜戦で決定的勝利を収めた北条氏が、関東の覇者として天正十八(1590)年まで君臨することになります。その意味では、ここ深大寺での直接の戦闘があったかどうかはともかく、上杉氏の衰退と北条氏破竹の進撃の歴史を物語る場所でもあるわけです。