坂東武者の館から堅固な平城へ

菅谷館

すがややかた Sugaya-Yakata

別名:

埼玉県比企郡嵐山町菅谷

(埼玉県立歴史資料館)

城の種別

中世武士館〜戦国期平城

築城時期

不明(平安末期〜鎌倉初期)

築城者

畠山重忠

主要城主

畠山氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、泥田堀、虎口

主郭付近の堀と土塁<<2002年01月20日>>

歴史

築城年代は不明だが、「吾妻鏡」によれば、元久二(1205)年五月には畠山重忠の居館であったことが知られている。重忠は保元・平治の乱以後、平清盛に仕え、治承四(1180)年に源頼朝が挙兵した石橋山合戦では平氏方につき、衣笠城を攻めて三浦義明を討っているが、父・重能の諭すところもあって、石橋山合戦の一ヵ月後には源頼朝に仕えるようになった。重忠は寿永三(1184)年、源義経に従い木曾義仲追討の先陣として宇治川合戦で活躍、また同年の一の谷合戦においては、鵯越(ひよどりごえ)の逆落しで自らの愛馬「三日月」を背中に背負って崖を駆け下り、周囲の鎌倉武士たちも唖然としたという。重忠は数々の華々しい軍功を挙げたが、頼朝の死後、権力の座を狙う

執権北条氏の手によって、元久二(1205)年六月、武蔵二俣川にて謀殺された。

重忠の死後の菅谷館のことは詳らかではないが、長享元(1487)年十一月、および翌年六月に山内・扇谷両上杉氏が戦った「須賀谷原合戦」において、太田資康が居住してたらしいことが伺える。その後のことは全く分かっていないが、小田原北条氏の傘下の武将が配置され拡張されたものと推測されている。

もともとは畠山重忠の居館から始まっています。畠山といえば、熊谷次郎直実などと並んで、鎌倉幕府創生期の代表的な坂東武者です。はじめ頼朝に敵対し、のちに頼朝のもとに帰参してからは、一の谷合戦をはじめとした数々の戦場で華々しい活躍をしますが、結局は幕府内部の権力争いにより謀殺されてしまいます。その後の菅谷館のことはほとんど分かっていませんが、現状を見る限り、「やかた」なんて控えめな名前がついていますが、これはもう立派な城郭です。それも、そんじょそこらの城でも敵わないほどの堅固さ、巧妙さと見受けました。遺構の規模も大きく、それぞれの保存状態もほぼ完璧です。その巧妙さと規模には正直なところ、度肝を抜かれる思いがしました。

そういうわけでもともとは現在の「一郭」を中心とした方形に近い中世武士館だったのでしょう。しかし、今残っている遺構は明らかに戦国末期のもので、とくに主郭周囲の堀や張り出し土塁、外曲輪とも思える西郭などに北条系の色彩が色濃く漂うように思います。中世の方形武士居館から平城へ、という進化はよくあるパターンではありますが、この菅谷館はそれが最も極端な形で表れたもの、と言えるでしょう。都幾川とその支流の深い浸食谷に守られた地形は平城といえども要害として申し分なく、この河川と周囲の湿地に守られた堅固な平城であっただろうことが想像できます。敷地内の歴史資料館で聞き忘れたのですが、外堀にあたる泥田堀はもしかしたら堀障子を伴っていたのでは、という痕跡も見えました。また、主郭下の直線的な堀は、あそこに障子仕切りを加えれば山中城岱崎出丸の堀にそっくりです。

こうしたことからも、武蔵比企郡での軍事拠点、「繋ぎの城」の一つとして、北条氏の手によって改修されたものと推測します。あくまで僕の推測ですが、秀吉軍の山中越えに備えて山中城が築城・拡大されたのと同様、中山道・笛吹峠越えの鎌倉街道ルートに照準をあてて備えを固めたものではないでしょうか。当時の守将は不明ですが、実際の小田原の役では小田原からの指示で、小田原城に入城したか、鉢形城に合流したかで、ここでの戦闘は行われなかった、という推論はどうでしょう?少なくとも在地土豪が単独で拡張したものでないことだけは確かで、北条氏の拠点たる城、鉢形城松山城河越城との位置関係・距離関係を考えてみても、ある程度筋道の通った推論ではないかと思っています。

城の南側を洗う天然の外堀、都幾川。この河畔には「ホタルの里」があり、当時を偲ばせる湿地帯が保護されています。 都幾川へ流れ込む沢沿いの浸食谷。この深い谷と都幾川の流れに守られて、菅谷館はなかなかの要害の立地です。
埼玉県立歴史資料館の正面は館の搦手方面にあたり、国道254号バイパスに面しています。この道路から見える堀と土塁の見事さだけでも、期待に胸が高鳴ります。 外堀は空堀ではなく泥田堀でした。冬季のため水はわずかしかありませんでしたが、湿地であることは見て取れます。写真のような折れや歪みもあり、堀の幅、土塁の高さとも、立派な戦国城郭のそれです。

外堀北側、三郭と西郭間の堀と分岐する付近。ここからは内堀も見渡せます。この外堀には数箇所、堀内障壁らしきものがあり、堀障子であったか、それとも傾斜地における水位調整用の土居のようなものと推定します。

三郭内側。各曲輪は非常に重厚な土塁に囲まれています。

二郭と三郭の間には、埼玉県立歴史資料館が建っています。趣向を凝らした展示や企画が行われています。ここで各種パンフが貰えたり資料館の刊行物が購入できますので、先にここで資料を入手することをお薦めします。

西郭から三郭へ向かう正坫門(しょうてんもん)の土塁と木橋。木橋に傾斜をつけ、さらに蔀(しとみ)土塁によって曲輪内部への侵入と見晴らしを困難にしています。この西郭は後に拡張された大手曲輪ともいうべき空間でしょう。

正坫門付近の堀。非常に複雑な堀底の形状と高い土塁が印象的です。この土塁は櫓台であるとともに、外堀から内堀へ流す水量を調節する施設でもあったと思います。

その堀は数段の高低差を伴なって、西郭と三郭、二郭を区切っています。

西郭の先にはなんだか寂しげな土橋と泥田堀があります。地味ですがここが大手門です。この大手門を都幾川の方に下ると、前述の「ホタルの里」のある湿地に繋がっています。

これは都幾川の河畔からまっすぐ上がったところの南郭。他の曲輪より低い位置にあります。腰曲輪のひとつと見るべきでしょうか。あるいは何らかの倉庫、居住区かもしれない。

二郭の門跡の土塁付近に佇む畠山重忠公の像。歴史資料館の中には「しゃべる重忠公」もあります。

重忠公像の下の「溜池」とされる場所ですが、実態は外堀から分岐して水を流してきた内堀の先端に当たる場所です。季節が悪かったのか、水は全くありませんでした。

主郭の土橋。主郭にはこの土橋のほかに「生門」と呼ばれる虎口があり、そちらがもともとの畠山氏居館の門であると言われています。

主郭土橋の右手を固める出枡形土塁と堀。この出枡形によって土橋を渡る敵は常に右方向からの横矢を受けることになり、また堀にも屈曲が付くため堀底を進む敵の視界を奪い、やはり痛烈な横矢を浴びせることができます。

畠山氏の居館跡と伝えられる主郭。高い土塁に囲まれています。この写真の先の土塁が途切れた場所がかつての大手門、生門です。

主郭の南側には土塁がなく、かわりに斜面の下に長大な横堀があります。この比高二重土塁的な構造が北条的です。また数箇所、堀内障壁っぽい場所があり、見ようによっては山中城岱崎出丸の堀に似ている気がします。

見所が多く全部紹介し切れません。「館」と書いてしまうと方形土塁の地味な居館跡を思い浮かべてしまうでしょうが、ここは戦国期の「平城」そのものです。夏でも安心して見学できますし、とにかく「館」という名称を一旦忘れて、実際に見に来ていただくことをお薦めします。

 

 

交通アクセス

関越自動車道「東松山」ICより車10分。

東武東上線「武蔵嵐山」駅徒歩10分。

周辺地情報

杉山城をセットで見学したい。周辺の比企丘陵には中世城館が沢山あるので、この菅谷館の中にある埼玉県立歴史資料館で調べて、お好みのところに行くのもいいでしょう。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「中世の城館跡」(埼玉県立歴史資料館)、「歴史と旅 1988.02月号」(秋田書店)、埼玉県立歴史資料館配布資料

参考サイト

埼玉県立歴史資料館埼玉の古城址

 

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