久下田城は「常勝」「結城家中にこの人あり」と謳われたバリバリの戦国武将、水谷正村、入道して蟠龍斎が敵地との最前線に築いたバリバリの戦国城郭です。この頃、蟠龍斎の主君にあたる結城政勝は宇都宮氏との宿怨の抗争を繰り広げていましたが、蟠龍斎は「敵に攻められるよりも自ら敵地に踏みこむべし」とばかり、宇都宮領の目と鼻の先の最前線、境目の位置に久下田城を築き、下館城を弟の勝俊にポンと譲って蟠龍斎自らが居城としました。見事な覚悟、まるで信玄や、美濃攻略を狙う織田信長の小牧城築城をも髣髴とさせるではありませんか!案の定、宇都宮側から見れば目障りでしょうがないこの久下田城、築城後まもなく八木岡貞家らが攻め寄せますが、逆にこれを散々に打ち負かして、八木岡貞家はほうほうの体で逃げ延びました。
収まりがつかない宇都宮氏を挑発するかのように久下田城下で父・全芳の法要を営む蟠龍斎。そこに八木岡貞家をはじめとした宇都宮連合軍が再度押し寄せますが、またまた蟠龍さんの狙いどおり。散々に迎え撃った上、逆に八木岡貞家を討ち取ってしまいます。こうして中村城、八木岡城などを次々と接収、結城城を守るどころか、むしろ積極的に宿敵の領土を蚕食しはじめます。その後、武田信隆の来襲を退け、小田城主・小田氏治との山王台の合戦、弓袋峠での太田資正との合戦などでも活躍し、「常勝蟠龍斎」の名は広く知られるところとなりました。北条氏康VS上杉謙信の関東争奪戦では、主君の晴朝の変わり身の早さにも適応し、天正九(1566)年の臼井城攻めにも寄せ手の一隊を率いて参陣しています。また天正年間のはじめ頃には早くも織田信長、徳川家康らに誼を通じる政治感覚も持ちあわせていて、ただの「猛将」ではないことを感じさせてくれます。
こうしてみると水谷蟠龍斎という人、あくまで結城の家臣、いわば陪臣の立場ではあるものの、その人物像はきっと信長や秀吉、家康らと比べても遜色が無かったのではないか、と言ったら少々誉めすぎでしょうか?蟠龍斎の人柄は下館城の頁にも記載しましたが、晩年はこの久下田城から、懐かしの下館城に戻って余生をおくったそうです。戦国終焉の激動期を生き残った蟠龍斎は、慶長三(1598)年、下館城で息を引き取りました。七十五歳と伝えられます(異説あり)。敵方からは「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠龍なけりゃよい」と草取り歌に歌われるほど恐れられた人物でした。ちなみに「地しばり」「ひる藻」ってナンダ?と思って調べたら、田んぼや畑に生えるタチの悪い雑草のことでした。「雑草なみ」ってことね。。。
この久下田城、一応茨城県指定の史跡になっており、本丸は小公園になっている、とのことでしたが、言ってみてちょっとガッカリ、小公園といっても薄暗い山林の中に薄汚れたベンチがあるくらいで、「地しばり」だか「ひる藻」だか知らないが夏草が伸び放題、車のわだちには水溜りができて、すっかり荒れていました。周囲の堀は見事なもののすっかり山林化していて全貌は伺えず、台地下には五行川の水を引き込んだであろう水堀などもありますが、こちらも山林の隙間から顔を覗かせるだけ。二郭以降は広大な畑や住宅地になっており、これまた全貌を掴みづらい。なによりこの薄暗く、薄汚れた雰囲気をなんとかしてもらいたい、これじゃ蟠龍さんが泣いてるぜ!そう思わずにはいられませんでした。まあ、ある意味古城らしい雰囲気は十分残しているとも言えますが。
なお城下には、蟠龍さんが先代の治持全芳(実父とも、養父ともいわれる)のために建立した芳全寺があり、蟠龍さんもそこに眠っています。残念ながら現存ではありませんが、武蔵大串領からぶん捕ってきたという、「蟠龍の釣鐘」の複製品もありますのでお見逃しなく。