『久下田に蟠龍なけりゃよい』

久下田城

くげたじょう Kugeta-Jo

別名:

茨城県下館市樋口

城の種別

平山城

築城時期

天文十四(1545)年 

築城者

水谷正村

主要城主

水谷氏

遺構

曲輪、空堀、水堀、土塁

芳全寺内の水谷蟠龍斎墓所<<2003年06月15日>>

歴史

下館城主・水谷正村(入道蟠龍斎)が天文十四(1545)年十月、宇都宮氏の家臣・中村日向入道玄角を下野中村城に攻め滅ぼした上で、宇都宮氏の逆襲に備え久下田城を築城し、自らは久下田城に移り住み、下館城は弟の勝俊に預けた。天文十五(1546)年九月には宇都宮氏の家臣、八木岡城主の八木岡貞家らが久下田城に来襲したがこれを撃退し、八木岡貞家を討ち取った(物井小堀切合戦)。また天文十六(1547)年には武田治部太夫信隆の攻撃を受けたがこれも撃退し、信隆を討ち取っている。この合戦では水谷蟠龍斎は鉄砲を用いていたという。

天文十七(1548)年二月、小田城主・小田政治が没すると、水谷蟠龍斎は真壁城主・真壁氏幹を説いて小田氏との同盟を解消させ、結城氏との同盟に寝返らせている。この後、結城政勝の跡を嗣いだ結城晴朝に従い、北条氏と上杉氏の間を行き戻りしつつ各地で転戦、永禄十一(1568)年には弟の勝俊に家督を譲り隠居したが、その後も多賀谷重経との戦いや田野城攻めなどに転戦し、天正十九(1591)年に下館城に戻り、慶長三(1598)年六月二十日に死去した。

水谷蟠龍斎の死後、久下田城は弟で下館城主の水谷勝俊に受け継がれ、その子勝隆の代、元和元(1615)年の一国一城令で廃城となった。

久下田城は「常勝」「結城家中にこの人あり」と謳われたバリバリの戦国武将、水谷正村、入道して蟠龍斎が敵地との最前線に築いたバリバリの戦国城郭です。この頃、蟠龍斎の主君にあたる結城政勝は宇都宮氏との宿怨の抗争を繰り広げていましたが、蟠龍斎は「敵に攻められるよりも自ら敵地に踏みこむべし」とばかり、宇都宮領の目と鼻の先の最前線、境目の位置に久下田城を築き、下館城を弟の勝俊にポンと譲って蟠龍斎自らが居城としました。見事な覚悟、まるで信玄や、美濃攻略を狙う織田信長の小牧城築城をも髣髴とさせるではありませんか!案の定、宇都宮側から見れば目障りでしょうがないこの久下田城、築城後まもなく八木岡貞家らが攻め寄せますが、逆にこれを散々に打ち負かして、八木岡貞家はほうほうの体で逃げ延びました。

収まりがつかない宇都宮氏を挑発するかのように久下田城下で父・全芳の法要を営む蟠龍斎。そこに八木岡貞家をはじめとした宇都宮連合軍が再度押し寄せますが、またまた蟠龍さんの狙いどおり。散々に迎え撃った上、逆に八木岡貞家を討ち取ってしまいます。こうして中村城、八木岡城などを次々と接収、結城城を守るどころか、むしろ積極的に宿敵の領土を蚕食しはじめます。その後、武田信隆の来襲を退け、小田城主・小田氏治との山王台の合戦、弓袋峠での太田資正との合戦などでも活躍し、「常勝蟠龍斎」の名は広く知られるところとなりました。北条氏康VS上杉謙信の関東争奪戦では、主君の晴朝の変わり身の早さにも適応し、天正九(1566)年の臼井城攻めにも寄せ手の一隊を率いて参陣しています。また天正年間のはじめ頃には早くも織田信長、徳川家康らに誼を通じる政治感覚も持ちあわせていて、ただの「猛将」ではないことを感じさせてくれます。

こうしてみると水谷蟠龍斎という人、あくまで結城の家臣、いわば陪臣の立場ではあるものの、その人物像はきっと信長や秀吉、家康らと比べても遜色が無かったのではないか、と言ったら少々誉めすぎでしょうか?蟠龍斎の人柄は下館城の頁にも記載しましたが、晩年はこの久下田城から、懐かしの下館城に戻って余生をおくったそうです。戦国終焉の激動期を生き残った蟠龍斎は、慶長三(1598)年、下館城で息を引き取りました。七十五歳と伝えられます(異説あり)。敵方からは「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠龍なけりゃよい」と草取り歌に歌われるほど恐れられた人物でした。ちなみに「地しばり」「ひる藻」ってナンダ?と思って調べたら、田んぼや畑に生えるタチの悪い雑草のことでした。「雑草なみ」ってことね。。。

この久下田城、一応茨城県指定の史跡になっており、本丸は小公園になっている、とのことでしたが、言ってみてちょっとガッカリ、小公園といっても薄暗い山林の中に薄汚れたベンチがあるくらいで、「地しばり」だか「ひる藻」だか知らないが夏草が伸び放題、車のわだちには水溜りができて、すっかり荒れていました。周囲の堀は見事なもののすっかり山林化していて全貌は伺えず、台地下には五行川の水を引き込んだであろう水堀などもありますが、こちらも山林の隙間から顔を覗かせるだけ。二郭以降は広大な畑や住宅地になっており、これまた全貌を掴みづらい。なによりこの薄暗く、薄汚れた雰囲気をなんとかしてもらいたい、これじゃ蟠龍さんが泣いてるぜ!そう思わずにはいられませんでした。まあ、ある意味古城らしい雰囲気は十分残しているとも言えますが。

なお城下には、蟠龍さんが先代の治持全芳(実父とも、養父ともいわれる)のために建立した芳全寺があり、蟠龍さんもそこに眠っています。残念ながら現存ではありませんが、武蔵大串領からぶん捕ってきたという、「蟠龍の釣鐘」の複製品もありますのでお見逃しなく。

バリバリの実戦のお城、久下田城の遠景。さほど堅固にも見えないけれど、蟠龍さんは常に敵を追っ払っていました。 主郭ですが、雑草&水溜りがなんとも・・・。せっかく良く残っていて、公園にもなってるんだから、もうちょっと綺麗にしましょうよ。。。
この石碑、なぜか近衛文麿の題字。 久下田城保存会の城址碑。写真は逆光で大失敗。。。
台地下には現在水路になっていますが、水堀があります。 主郭周囲の土塁、っていっても雑草が。。。
主郭周囲の堀は幅も深さも見事!でも藪が。。。。 主郭虎口付近の堀は深くはないもの幅は立派。でも藪が。。。。ってこればっか。
主郭虎口は車一台やっとの土橋。でも車道のために多少は改変されてるんだろうな。 二郭以下は広大な農地になっていました。ほんとは周囲を歩きたかったんですが畑に入るのがちょっと躊躇われて。。。
二郭と三郭を隔てる空堀ですが、さすがにこの状態では突入しようとは思いませんでした。 気を取り直して芳全寺へ。蟠龍さんが父・治持全芳のために建立したお寺です。大きく見ればここも城内の一部でしょう。
そして蟠龍さんのお墓。戦乱に明け暮れた人生でしたが、名政治家でもありました。 その蟠龍さんがぶん捕ってきた「蟠龍の釣鐘」。本物は大戦中の戦時供出で失われ、模造されたものです。蟠龍さんの活躍を記した鐘銘が刻まれています。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「栃木」IC車20分、北関東自動車道「宇都宮上三川」IC車10分。

J真岡鉄道「久下田」駅徒歩10分。

周辺地情報

見所があるとは言い難いものの下館城、伊佐城。結城市まで足を運んで主家の結城城城の内館など。

関連サイト

 

 
参考文献 「水谷蟠龍斎」(桐原光明/筑波書林)、「結城一族の興亡」(府馬清/暁印書館)、「結城氏十八代」(石島吉次/筑波書林)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

参考サイト

常陸国の城と歴史

 

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