結城朝光は関東八屋形の一角、小山政光の三男でしたが、母の寒河尼に連れられて隅田川の源頼朝の陣を訪れ、そこで頼朝を烏帽子親として元服し「朝」の一字を賜りました。これが結城氏誕生の瞬間なのですが、実際結城朝光は母の寒河尼が頼朝の乳母だったこともあり、いわば頼朝の乳兄弟、頼朝に愛され、信任篤い人物であったようです。都を平定し平氏を壇ノ浦に滅ぼして鎌倉に凱旋しようとした義経が頼朝の勘気を買って鎌倉へ入ることを差し止められ、傷心の義経が自らの無実を切々と訴えた「腰越状」をしたためたとき、頼朝の使者として酒匂に義経を訪ね、鎌倉への凱旋を差し止めさせた、その使者が朝光であったそうです。軍功の方も、頼朝の奥州藤原氏平定戦で名を上げ、その功により奥州白河にも所領を拡げ、白河結城氏の祖ともなりました。頼朝の死後、二代将軍頼家の時代に、かつてを懐かしんで「忠臣は二君に仕えず」と語ったところ、梶原景時の讒訴のターゲットになりかけた危うい事件もあり、これが御家人六十六人の連判状事件に発展、梶原景時追放の端緒になった、というようなエピソードもあります。
この結城氏に訪れた最大の試練が「結城合戦」でしょう。結城氏朝・持朝父子は関東公方・足利持氏の遺児を匿って結城城に立て篭もり、悪名高い「くじ引き公方」足利義教や、関東管領上杉憲実ら一族をはじめ、幕府軍・上杉軍ほか総勢十万の大包囲を受ける事態となります。しかし湿田に守られた結城城は簡単には落ちず、城兵の士気も高く、十ヶ月に渡って抗戦します。結局最後は結城城は落城炎上し、氏朝・持朝父子は自刃、ここに名門結城氏は一旦滅亡してしまいます。その後結城氏は氏朝末子の成朝によって再興され、政朝、政勝らの英傑も輩出しますがそれは後の話。
この城の内館(城の内遺跡)は結城城の南約2kmにあるほぼ方形の居館跡で、初期の結城氏の居館だといわれています。おそらく、結城合戦以前にその本拠は結城城に移り、城の内館は使われなくなったか、一族または家臣に払い下げられていたかもしれません。いずれにしても、初期結城氏の栄光と苦悩を物語る、実に貴重な遺跡です。
この貴重な遺跡、長い間個人所有の土地であったにも関わらず、非常によく遺構が残っています。規模は現地の解説板によると東西178m、南北128mの立派なもの。もちろん戦国期のような大規模なものはありませんが、一辺が100m以上にも及ぶ広大な方形の館の四至は非常にはっきりしており、土塁や堀跡も見られます。現地にあった石碑によると、この貴重な遺跡の荒廃を憂いた所有者が、遺跡の保護のために結城市にこれを譲渡・寄付したとのこと。結城市ではこれを受けて、散策路などの整備を進め、現在は約1/3が史跡公園として、1/3は竹林、残りの1/3は立木ノ地蔵尊の敷地として、しっかり保存されています。すぐ近くを国道50号の結城バイパスが通り、周辺が宅地化しつつあることを考えると、この所有者と結城市の対応に拍手を送りたくなります。この公園の一角には、この土地所有者を顕彰する石碑も建てられていました。
遺構は周囲を巡る高さ2mほどの土塁と、西側を中心に残る堀跡が良好に残ります。堀は戦国期の城郭に比べて幅も狭く、折れなどもないことから、結城合戦の後には使われていないだろうと思います。また、この堀はきっと周囲の湿地の水を引き込んだ、水堀であったことでしょう。
結城市内にはこの他に、結城氏庶流の山川氏の館である山川氏館(東持寺)があり、良好な状態の武士居館がふたつも近接する上、結城城もほど近く、さらに歴代の墓所(鳥肌モノ)や菩提寺もあるなど、充実した歴史散策が楽しめます。