三大山城のひとつは城下町まで城づくり

備中松山城

びっちゅうまつやまじょう Bicchuu-Matsuyama-Jo

別名:高梁城、小松山城、臥牛城

 

岡山県高梁市小松山

城の種別

中世〜近世山城

築城時期

延応二(1240)年

(現在の遺構は天和元(1671)年、水谷氏)

築城者

秋庭三郎重信(現在の遺構は水谷勝宗)

主要城主

秋庭氏、高橋氏、三村氏、小堀氏、水谷(みずのや)氏ほか

遺構

曲輪、石垣、天守、櫓、土塀、根小屋 等

小松山山頂の本丸と天守<<2001/04/22>>

歴史

延応二(1240)年にこの地の地頭職、秋庭三郎が大松山に砦を築いたのが始まり。その後、高橋氏によって城域は現在の小松山方面まで広がった。その後は高氏、上野氏、庄氏、尼子氏と目まぐるしく城主が変わったが、永禄四(1561)年、毛利氏の支援を得た成羽の三村家親が尼子氏の城代・加藤氏を討ち城主となった。

元亀三(1572)年、宿敵・宇喜多氏が毛利氏と和睦すると三村元親は毛利陣営から織田陣営に走り、天正二(1574)年から三年にかけて備中全土を舞台に、織田VS毛利の代理戦争とも言うべき激戦が繰り広げられた(備中兵乱)。毛利の大将、小早川隆景に包囲された松山城は内通者らによって落城、元親は家臣の説得で城を脱出したが途中で怪我を負い逃走を断念、山麓の頼久寺で自刃し三村氏は滅亡した。

関ヶ原後は毛利氏への備えとして小堀氏が入封、一時池田氏を経て、常陸下館城より水谷(みずのや)氏が入封、その二代・勝宗によって現存する石垣、天守などが造営された。水谷氏の断絶後は赤穂藩・浅野氏の所領となり、大石内蔵助が在番した。その後は安藤氏二代、石川氏を経て板倉氏七代が続き廃藩置県を迎えた。

城主は目まぐるしく入れ替わっていますが、有名なのは備中兵乱の中で滅んでいった三村氏と現在残る主な遺構を築いた水谷氏でしょう。前者は宿敵・宇喜多直家への怨恨と織田・毛利の二大勢力の板ばさみの中で滅亡していった小領主の悲哀を感じずにはいられません。この備中兵乱については津本陽の「宇喜多秀家」に詳しく記述されています。また後者は現存する遺構を構築したことで有名。城下町に連なる寺社の数々は元和の一国一城令や武家諸法度に抵触することは一目瞭然。山上の石垣を含め、何故ここまで堅固な城を築く必要があったのか、興味は尽きないところです。この水谷氏の断絶に関しては、嘘かほんとか分かりませんが、二代に渡る「藩主喪失」という事件があったと言われており、南條範夫の「廃城奇譚」に虚実織り交ぜて書かれています。

城の遺構は中世松山城(大松山城)と近世松山城(小松山城)、根小屋地区の3つに分かれます。詳しい解説は別ページを見ていただくとして、特筆したいのは根小屋地区の居館跡(御根小屋)と周辺の寺社。特に山麓に連なる寺社は高石垣の上に鐘衝き台に模した櫓台や馬出し、食い違いなどが見られ、露骨に城郭です。しかも高梁川の対岸にも同じような寺社を配置するといった徹底振り。ここまで徹底したカムフラージュ出城は見たことがありません。小堀遠州が造営した頼久寺の庭園などを含め、見ごたえ十分です。天守だけじゃなくて、ぜひココも見ていって欲しいです。

 

備中松山城めぐり1:小松山城

 

 

交通アクセス

岡山自動車道 高梁ICより車20分

周辺地情報

 

関連サイト

 

 

参考文献

「城と城下町」(石井進/山川出版社)、「城をめぐる 兵たちの夢跡を歩く」(マガジントップ/山海堂)、別冊歴史読本「戦国古城」(新人物往来社)、「日本名城の旅 西日本編」(ゼンリン)、「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)

参考サイト

 

 

埋もれた古城 表紙 上へ 備中松山城めぐり1