この「山室氏」というのは何者なのかわかりませんが、「総州山室譜伝記」という古文書が残されており、芝山町役場で買えます(現在読破中、しかしなかなか手強い本だ・・・)。この山室氏の客将であった井田氏が独立領主化し築いたのが横芝町の坂田城です。
まあそれはともかく、本多忠勝を大将とした徳川の房総方面別働隊の攻撃を受けたらひとたまりもないでしょう。勝手な想像ですが、この山室氏という小土豪はきっと、北条でも豊臣でも、なんでもよかったに違いありません。ただ時の勢いで北条に与したがために大軍に攻められ、赤子の手をひねるように蹴散らされたに違いありません。そう考えてみると、小土豪という存在のなんと儚いことか。ま、あくまでも勝手な想像ですけどね。
と思ったら、この「総州山室譜伝記」を読破した余湖さんによりますと、若干事情が違うようです。僕はてっきり「小田原の役」+「房総の城」=「本多忠勝にコテンパン」みたいな式を勝手に想像していたのですが、実はこの飯櫃城をめぐる合戦は天正十八(1590)年の年末、十二月だというのです。もちろんとっくに小田原城は開城しています。どうやら房総の諸城の接収を廻って、千葉氏の遺臣を中心としたもともとの在地土豪衆の不満が爆発、それらの勢力をまとめた親玉が山室光勝なる人物で、これに対して家康は本多忠勝ではなく、保科正光を遣わして平定に当たった、とのこと。で、飯櫃城勢もそれなりに健闘したみたいです。まああくまでも「それなりに」なので、最後は結局、ひねり潰されるのですが。この辺の経緯は「余湖くんのホームページ」の中に詳しいので、そちらをぜひご覧下さい。僕もちゃんと「総州山室譜伝記」読んで、全体像をもっと理解しようと思います。当然、軍記モノの類ですので史実かどうかは「?」のままです。
飯櫃城は延々と続く丘陵地帯の一角に築かれていて、周囲は比高20m前後の崖、外側は当時はきっと湿地に囲まれた、房総地方の典型的な中世城郭の一つだったでしょう。今ではすっかり農地になっていますが、それが幸いしたのか地形だけはよく残っています。いかにも古めかしいプランの小城、と思ったらこれも実はそうでもなくて、なかなか楽しめます。二郭の堀なんかは結構な幅と深さがあるし、主郭の回りの堀も控えめながら折がついているし、何ともいえない味わいがあります。ほぼ畑になっていますが、一見の価値アリです。