時代を先取りする男、戦国大名北条早雲の原点
興国寺城
こうこくじじょう Koukokuji-Jo
別名:杜若城、久窪城、深田山城、高国寺城
静岡県沼津市根古屋
平山城
築城時期
長享元(1487)〜延徳年間ごろ
築城者
伊勢新九郎(?)
主要城主
伊勢新九郎、垪和氏、保坂氏、曾根氏、天野氏ほか
遺構
曲輪、天守台石垣、空堀、土塁、水堀跡、舟付場跡 他
本丸の北条早雲の碑<<2002年10月13日>>
歴史
築城時期は明らかではないが、駿河守護職の跡目相続を廻り長享元(1487)年十一月九日、小鹿範満を討って今川氏親の相続を後押しした伊勢新九郎(のちの北条早雲)がその恩賞として富士郡上方荘・下方荘を与えられ築城したと言われる。しかしそれ以前に古い城館があったとも言われる。地名の由来はもともと興国寺という寺院があったのを鳥谷に移し、その跡に築城したことに由来すると言われる。
伊勢新九郎はこの地で「四公六民」の税制を実施するなど、先進的な統治を実施した。延徳三(1491)年、堀越御所を急襲し、足利茶々丸を討って伊豆に侵出、韮山城を築城し、生涯韮山城を居城とした。明応四(1495)年(異説あり)、新九郎は小田原城の大森藤頼に対し「小田原周辺で鹿追いをしたい」旨を申し入れ、その承諾を得た。宗瑞は鹿追いを装い韮山城を出兵、「火牛の計」という奇策を用いて夜間に小田原城を急襲しこれを奪取、以降小田原城が北条五代100年の居城となった。その後は興国寺城は今川領に復帰している。
天文五(1536)年、今川義元が武田信虎と和睦したことに怒った北条氏綱が駿東に侵出(河東一乱)、北条氏の支配下に入ったが、天文十四(1545)年、今川義元は北条の拠点であった長久保城を包囲・落城させ、駿東郡の支配を取り戻した。この合戦の教訓から天文十八(1549)年に興国寺城を大改修した。天文二十(1551)年に一時北条軍に奪回されるがすぐに取り戻している。永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が破棄されると、北条氏政・氏邦は駿河に侵出、興国寺城、葛山城などを奪取している。氏政は永禄十二(1569)年五月、垪和(はが)伊予守氏続に守備を命じた。垪和氏続は武田軍の動静を小田原城に急報、吉原・沼津等で武田軍と交戦した。元亀元(1570)年八月、武田信玄は軍勢を二手に分けて興国寺城、韮山城を攻撃、また元亀二(1571)年一月にも武田軍の攻撃を受けているが撃退している。元亀二(1571)年十二月に甲相和睦が成立、その後は武田氏の属城となり、穴山信君の家臣、保坂掃部、向井伊賀守正重、曾根下野守正清らが在番した。天正十(1582)年、武田氏が滅亡すると曾根正清は徳川家康に興国寺城を明け渡し、徳川の家臣となった。興国寺城には牧野右馬允正康が入城した。
その後は松平清宗が天正十八(1590)年二月まで城主となり、その間天正十七(1589)年の地震で興国寺城や沼津城、長久保城などの塀や櫓が破損したことが残されている。天正十八(1590)年の小田原の役の後、徳川家康は関東に移封、駿府城に中村一氏が任じられると、興国寺城には家臣の河毛惣左衛門尉重次が入城した。 慶長五(1600)年の関ヶ原の役の後、翌六(1601)年二月に徳川家康の家臣、天野三郎兵衛康景が城主となったが、慶長十二(1607)年三月、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すよう命ぜられた康景がこれを拒み遁走したため、興国寺城は破却、廃城となった。
時代を先取りし続けた男、伊勢新九郎、そう、あの北条早雲。ここ興国寺城はその早雲の戦国大名としての「原点」とも言える場所です。いや、感動しました。城跡に立って膝が震えたのは、近江の小谷城以来のことですね。 新九郎はご存知の通り、今川義忠の正室となった「北川殿」の兄にあたり、のちに今川氏を戦国大名に発展させる今川氏親の叔父にあたります。新九郎はこの興国寺城を与えられる前には石脇城に在城していたのですが、この頃の身分としてはまだ「食客」程度だったと思われます。新九郎の名が一躍表舞台に出るのは、今川義忠の急死による相続争いの時のこと。正当な嫡流である龍王丸(のちの氏親)と一族の「実力者」小鹿範満による相続争いで新九郎は一貫し龍王丸を支え、和議を整え太田道灌ら関東諸将の介入を阻止し、やがて家督を譲らぬ範満を駿府城に滅ぼして、みごと氏親に駿河守護職の座をプレゼントします。氏親にとって、新九郎は頼りになる「叔父御」であったでしょう。その恩賞に賜ったのがこの興国寺城。新九郎が築城したとも、古い城館を改修したとも言われますが、駿府から遠くはなれた辺鄙な土地を望んだことを皆、疑問に思いました。しかしそのころすでに新九郎の目は伊豆、そして「箱根の坂」に向いていました。新九郎は堀越公方や伝統的な守護・地頭の制度にすでに限界を感じていたのかもしれません。のちの北条氏が今川から離れ独立大名となるのは子の氏綱の代からですが、新九郎にはすでに「自分の領土は自分で獲る」という、来るべき戦国の時代への思惑があったのではないでしょうか。その後の新九郎の活躍はご存知の通りです。
新九郎、いや早雲の新しさは領国支配にも顕われています。年貢を当時としては破格に低い「四公六民」に抑え、また早雲が氏綱に残した「早雲寺殿廿一箇条」は領民を統治する者のあり方を説くもので、のちの「分国法」にも相通じるものがあります。北条氏がのちに関八州を席捲するのも、洗練された軍事制度とともに、領民を慰撫する優れた民政、経済政策、統治者としての哲学が貫かれていたことも大きいと思います。その基盤を作ったのが言うまでもなく早雲公でありました。「梟雄」と称されることの多い早雲ですが、民を愛し秩序を重んじ、古い体制を打破する名政治家であったと思います。これらの政策や哲学、都市計画、築城法までが近世の徳川氏による支配に大きく影響しているのは疑いありません。
この興国寺城にもその先進性は顕われています。背後には愛鷹山系の高峰が控え、山城を築城するのであればいくらでも適地はあるにもかかわらず、支配地により近い丘陵上の一端を選択しているのは象徴的です。背後の巨大な堀切などがどの時代のものかは分かりませんが、舌状台地先端を堀切で分断して城郭として取り立てる手法は北条系城郭の基本のひとつでもあり、それは早雲の時代にすでに見られることなのです。そこには、要害性よりも領国支配を第一に考える、近世城郭の先駆けとも言える思想が見えてきます。
興国寺城は三ノ丸は宅地化してしまいましたが、二ノ丸以上の城域はよく残り、現在整備が進められています。前述の通り、舌状台地先端を堀切で断ち切り、周囲は湿地という立地でした。本丸には巨大な土塁があり、その上部には石積みの天守台まであります。また本丸背後の堀切はビックリするほどの深さ・規模で、これらの遺構は戦国末期から近世に掛けて改修されたものと考えた方が良さそうです。さらにその北側には外郭があり、その一部を東海道新幹線が分断し、轟音をあげて走り過ぎていきます。この新幹線のおかげで「静かに当時を偲ぶ」というわけにはいかなくなりましたが、遺構はよく残っていますし、周囲の地形も当時を彷彿とさせます。歩きやすい場所でもあるので、早雲ファンのみならず、すべての方に一度訪れてもらいたい場所です。
二郭の東側の片隅にひっそりとある虎口らしき道。搦手だったのでしょうか。とりあえず降りてみると・・・。
かつて城の周囲を取り巻いていた湿地(水堀)の跡が明瞭に残っていました。
本丸付近下の水堀跡。水堀、というよりも泥田堀だったと思います。この低湿な谷津を挟んで農地化している清水曲輪があります。
二郭付近からかつての大手門のあった「枡形」付近を望む。このあたりは改変が激しく、かつての姿を想像するのは難しい。
それでも、かつて堀であったであろう地形などはところどころにうかがうことが出来ます。
城址目の前のガソリンスタンド背後は三郭外堀でしたが、こちらも面影はほとんどありません。
交通アクセス
東名高速道路「沼津」ICより車10分
JR東海道線「原」駅より徒歩30分
周辺地情報
関連サイト
参考サイト
武田調略隊がゆく