上原城の歴史

諏訪大社上社大祝の諏訪氏が築城した。諏訪氏は大祝として信仰を集めたが、神郡である諏訪郡から外に出ることは禁忌とされていた。このことから幼少時に大祝となり、長じるとその職を辞して惣領を相続する慣わしであったが、南北朝期から室町期の戦乱に際して郡域外への出陣が増えたため、諏訪満有の子、信満の系統が惣領家を、頼満の系統が大祝を嗣ぐこととなった。当初両家は諏訪大社上社前宮の神殿(ごうどの)に居住していたが、康正二(1456)年、惣領諏訪安芸守信満と大祝諏訪伊予守頼満が対立して兵火を交え、惣諏訪領家は上原に居を移した。上原城の原型はこの頃築かれたと思われる。

文明十五(1483)年正月八日、大祝諏訪継満は惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰め、のちに高遠へ追放した。これによって惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続した。諏訪頼満は永正十五(1518)年十二月、下社大祝の金刺昌春を攻めて萩倉要害(山吹城)を攻め落とし、金刺氏を追放したが、金刺昌春は隣国甲斐の武田信虎を頼った。信虎は享禄元(1528)年八月に金刺昌春を擁して諏訪に侵攻を開始、これに対して諏訪頼満、頼隆父子は「シラサレ山」に陣場を据えて武田軍と対峙した。武田軍は御射山神戸の合戦で諏訪軍を破ったが、境川の合戦で萩原備中守昌勝ら雑兵200を討ち取られ甲府に帰陣、甲斐北部は諏訪軍に占領された。また頼満は享禄四(1531)年一月、甲斐の今井信是、信元、飫富兵部少輔、大井信業、栗原氏らの叛乱に加勢して甲斐に侵攻、武田信虎は、笹尾塁を取り立て下社牢人衆に立て籠もらせたが、諏訪軍の侵攻により、笹尾塁は闘わずして自落した。二月二日の合戦で大井信業、今井備州らが戦死、三月三日の韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら八百が戦死し叛乱軍は壊滅的打撃を受けた。今井信元はなお抵抗したが、天文元(1532)年九月に本拠地の獅子吼城を開城、降伏し、武田氏による甲斐統一が実現した。これによって敗北を喫した諏訪頼満は天文四(1535)年九月に信虎と会談し和睦、天文九(1540)年十一月、信虎は息女の禰々を頼満の孫にあたる頼重に嫁がせて縁戚となった。頼重は天文十(1541)年五月には武田信虎、村上義清らとともに佐久・小県郡に侵攻し長窪城などを攻略した。しかし信虎は六月、嫡子晴信(のちの信玄)によって駿河に追放された。

天文十一(1542)年六月二十四日、武田晴信は突如諏訪頼重を攻撃するために甲府躑躅ヶ崎館を出立し、二十九日に諏訪郡に侵攻、御射山に布陣した。当初頼重は晴信の侵攻を信じなかったが、二十八日に軍勢を上原城に召集、七月一日に出撃して武田軍と対峙した。七月二日、高遠城主・高遠頼継が武田氏に応じて杖突峠から諏訪に侵攻して安国寺附近に放火した。頼重は挟撃を恐れて上原城を焼き払い桑原城に立て籠もった。武田軍は桑原城下に兵を進め、落城寸前と見られたが、七月四日に武田軍より和睦の申し入れがあり、頼重はこれを受け入れて桑原城を開城、弟の大祝・頼高とともに甲府の東光寺に幽閉され、七月二十一日に切腹し諏訪氏は滅亡した。

その後上原城には武田氏の兵が置かれていたが天文十一(1542)年九月十日、戦後処理に不満を持つ高遠頼継が諏訪に侵攻しこれを放逐した。これに対して武田軍は九月二十五日に高遠軍と宮川橋で交戦し、高遠氏は大損害を受けて撤退した。天文十二(1543)年四月には晴信は板垣信方を諏訪郡代に任じて上原城を修築させた。五月二十七日には上原城の鍬立式が行われ、六月十九日には晴信自身が上原城の普請の様子を見聞、二十六日には主殿や門、城戸の作事も完成した。上原城は信濃攻略の重要拠点として整備され、板垣信方の寄騎在城衆として長坂筑後守虎房らが派遣された。天文十三(1544)年四月にはふたたび普請が強化され、七月一日には板垣信方が屋敷の鍬立を行っている。

天文十七(1548)年二月十四日の上田原合戦で板垣信方は戦死、敗報は翌十五日に上原城の駒井高白斎政武に伝えられ、今井兵部信甫と相談の上、躑躅ヶ崎館にいる信玄生母の大井夫人から帰陣をとりなしてもらうよう画策、三月五日にようやく撤退し上原城に引き上げた。晴信は戦死した諏訪郡代後任に室住(諸角)豊後守虎光を任命し上原城に在城させた。

天文十七(1548)年七月十日、諏訪西方衆が小笠原長時らの煽動によって叛乱を起こし、長坂虎房、千野靭負尉、守矢頼真らは上原城に立て籠もり晴信の後詰を要請した。諏訪西方衆に呼応して小笠原長時は塩尻峠に布陣した。晴信は晴信は七月十一日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣したが、遅速行軍で相手を油断させ、十八日に上原城に入った。晴信はその夜のうちに密かに軍勢を塩尻峠に展開させ、翌早朝に一斉攻撃をかけ、小笠原軍は一千名が戦死して敗退した(塩尻峠の合戦、勝弦峠の合戦)。この後八月十一日に長坂虎房が上原城代に就任した。天文十八(1549)年一月には諏訪の押さえとして新たに茶臼山城(高嶋城)を築城し長坂虎房を移している。

その後も上原城は武田氏の信濃攻略の中継拠点として維持された。永禄五(1562)年には信玄と諏訪頼重の娘・諏訪御寮人の間に生まれた子、四郎勝頼が諏訪氏を嗣ぎ、伊那郡代として高遠城に在城した。勝頼は諏訪四郎神勝頼を称した。のちに信玄の嫡男・義信が謀反を企て東光寺に幽閉、死去すると勝頼は武田姓を名乗った。

天正十(1582)年正月六日、木曽福島城主・木曽義昌が美濃苗木城主・遠山久兵衛を介して織田信長に通じて実弟の上松蔵人を人質に差し出した。武田勝頼は一月二十八日、木曽氏討伐のため武田信豊を大将に山県三郎兵衛尉、今福越前守らを派遣したが鳥居峠の合戦で敗れた。勝頼は後詰として二万を率いて新府城を出立して上原城に入った。織田信長は二月三日、全軍に命じて甲斐・信濃に侵攻、主力の織田信忠軍は伊那松尾城を開城させ、飯田城、大島城なども自落、一門の穴山信君も離反した。この事態に勝頼は上原城を引き払い、新府城に戻った。三月三日には新府城も焼き払い、岩殿城へと落ち延びようとしたが、三月十一日、田野において自刃し、武田氏は滅亡した。以後上原城も廃城となった。

上原城

 

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