神前を汚した血の凶事の果てに

干沢城

ひざわじょう Hizawa-Jo

別名:樋沢城、日沢城、安国寺城

長野県茅野市宮川

城の種別

山城

築城時期

康正年間〜文明年間頃

築城者

諏訪氏

主要城主

諏訪氏

遺構

曲輪、堀切、礫石

干沢城主郭<<2005年04月29日>>

歴史

諏訪大社上社大祝の諏訪氏が築城した。諏訪氏は大祝として信仰を集めたが、神郡である諏訪郡から外に出ることは禁忌とされていた。このことから幼少時に大祝となり、長じるとその職を辞して惣領を相続する慣わしであったが、南北朝期から室町期の戦乱に際して郡域外への出陣が増えたため、諏訪満有の子、信満の系統が惣領家を、頼満の系統が大祝を嗣ぐこととなった。当初両家は諏訪大社上社前宮の神殿(ごうどの)に居住していたが、康正二(1456)年、惣領諏訪安芸守信満と大祝諏訪伊予守頼満が対立して兵火を交え、惣領諏訪家は上原に居を移した。上原城の原型はこの頃築かれたと思われる。一方の大祝諏訪家は干沢城を築いたとされる。

文明十五(1483)年正月八日、大祝諏訪継満は惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰めた。干沢城は落城し、継満の父・伊予守頼満は戦死、継満は高遠へ追放された。継満は翌文明十六(1584)年五月三日、小笠原貞宗ら下伊那の豪族の支援を得て諏訪に侵攻し武居城に陣取って干沢城と対峙したが、大祝の地位は奪還できず、惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続した。

干沢城は諏訪大社上社大祝(おおはふり、おおほうり)の居城という、実にまったく格式の高いお城です。諏訪大社大祝といえば、諏訪神官の頂点を為す役職であると同時に、大祝の地位は神と同一、自らも信仰の対象として崇められるアラヒトガミとも見なされる聖なる地位。故に諏訪氏は本姓を「神(じん)氏」と名乗ることもあり、武田家を嗣ぐ前に諏訪家を嗣いだ勝頼も、「諏訪四郎神勝頼」と署名しています。

この諏訪氏、神職であると同時に伝統的な武士団でもあり、鎌倉時代は北条得宗家とつながりが深く、北条一門の残党が蜂起した「中先代の乱」でも北条時行(北条高時の遺児)を支援しています。南北朝期から室町期にかけても相次ぐ戦乱により、諏訪氏は武士団としてあちこち出向く必要が増えてきたのですが、大祝の地位にある者は諏訪郡内から外に出てはいけない、という決まりごとがありました。そこで考え出されたのが幼少のころに大祝の地位につき、長ずると職を辞して武士団・諏訪氏の惣領となる、というシステムでした。しかしこれもいろいろ面倒なことがあり、じゃあいっそ役割分担をしようということで、大祝職を嗣ぐ大祝家と、武士としての諏訪氏を嗣ぐ惣領家に分かれ、所領も諏訪盆地を流れる宮川を境に分割、とりあえず居住地は諏訪大社の前宮神殿(ごうどの)で二家仲良く暮らす、というシステムに変化しました。しかし、神聖なる諏訪氏といえどもそこは人間、この惣領家と大祝家がだんだん泥臭い抗争を始めるようになります。最終的には惣領家が神殿を飛び出して、所領のある宮川東岸の上原の地に館を設けます。こちらが上原城の前身です。一方の大祝家も、「勝手にせい」とばかり、自分たちの居城を築きます。これが干沢城です。

で、ここに諏訪継満なる人物が大祝家に登場します。この継満、神の血を引く神聖な家柄のくせに野獣の心を持っていたようで、文明十五(1483)年正月八日、神事にかこつけて神殿に惣領家の諏訪政満を呼び出し、酒に酔わせ油断したところを嫡子の宮若丸、政満の弟・小次郎ら一族もろとも刺し殺してしまうという、なんとも腹黒い所業に及んでしまいます。正月早々のこの暴挙に惣領家の一族のみならず、大祝家の神職にあった者たちも大激怒、「おのれ神殿を血で汚す外道め、許すまじ」とばかり干沢城に攻めかかります。結局干沢城は落城し継満は降伏、高遠に去っていったということです。

 

干沢城平面図

※クリックすると拡大します

干沢城がいつまで存続したか分かりませんが、武田軍の諏訪侵攻に呼応して高遠頼継が杖突峠を下って攻め込んだ際に高遠頼継がここに陣取り、安国寺附近を放火したともいわれます。しかし干沢城がもし現役で機能していたら、当然頼継もこれを落とさずに杖突峠は越えられなかったでしょうし、安国寺周辺で好き勝手をやらかすことも出来なかったでしょう。実は天文八〜九(1539-40)年に諏訪地方を襲った大暴風雨により宮川が氾濫、干沢城の城下にあたる安国寺周辺は壊滅的な被害を受けたらしいのです。この災害は諏訪氏の経済基盤をも破壊し、結局は滅亡の伏線のひとつともなっています。こうした天変地異が天文年間から永禄年間にかけて全国で相次いだことが戦国史に大きな影響をもたらした、ということが藤木久志氏らの研究で次第に明らかにされつつあります。また、どうもこの時期、地球的規模の小氷河期に差し掛かっていた、という話もあります。ここ数年、日本のみならず世界的に天変地異が相次いだこともあり、この500年前の気象情報は実に気にかかるところです。それはともかくこの災害により、干沢城も機能を失っていた、と考えることもできそうです。

干沢城は諏訪盆地から国道152号で高遠方面へ向かう際の最初の登り坂、陸橋とトンネルが続くまさに峠の麓にあり、大祝家の居住地でもあった前宮神殿とも直線距離で500mほどの場所にあります。見学にはこの陸橋の真下、安国寺の古い墓石群の立つ谷津から登るのが手っ取り早いです。主郭はまずまず整備されていますが全体に結構下草が伸びており、細かい部分はよく見えません。諏訪郡内では比較的大きなお城ではあるのですが、全体に縄張りはシンプルで、少々あっさりし過ぎているような感もあります。城内には数箇所、投石用の礫石とされる石塚がありますが、W曲輪東側のものはいかにもそれっぽいですが、U曲輪内部のものはナゼ投石用の石を曲輪の真ん中に置くのか、ちょっと解せません。U曲輪のものは経塚などにも見えますがどうなんでしょうか。杖突峠に連なる尾根の鞍部にはおそらく大堀切があったものと思われますが、現在は配水場が建っていてかなり改変されているようで、堀切の痕跡は見つかりませんでした。その背後の尾根には二条ほどの小さな堀切と平場があり、一応尾根続き方向に気を遣っている様子が伺えますが、峠からの逆落とし攻撃にはいかにも脆弱そうにも見えます。

大祝家が日常生活を営んだという神殿は上社前宮の地がそれにあたり、土塁などが残っている、とされていますが、現状は段差などは認められるものの城館らしい遺構は見当たりませんでした。遺構はともかく、ぜひ干沢城とワンセットで足を運んでおくべき場所でしょう。

まあそれにしても、諏訪継満の行いは神どころか畜生にももとる行為、と受け取られても仕方ないでしょう。つくづく人間ってものの欲深さを考えさせられる事件ではあります。。。

[2007.06.27]

大祝諏訪氏の平時の居館であった神殿から見る干沢城。神に仕える身とはいえ、イザ有事にはあの山城に立て籠もる、というわけです。 その干沢城、杖突峠のまさに直下にあり、脇をR152が通り抜けます。写真の陸橋の下あたりから登り口があります。
「干沢城へ」の小さな看板に従い谷津の中へ。安国寺の古い墓地あたりから登り始めます。 比高60mほどとは言いながらも、ほとんど直登に近いこのダラダラ坂は結構しんどいです。
上り詰めるといきなり目の前に配水場が。このあたりには大堀切でも欲しいところですが、かなり改変されていて遺構と呼べるものはありませんでした。 いきなり主郭の塁壁に取り付きます。途中ちょっと虎口のような場所があります。
主郭はまずまず綺麗に整備され、城址碑や城歴を記した解説板などが立てられています。 こちらはU曲輪。このあたりまでは下草も少なく快適。
U曲輪にある戦闘用の礫石という塚。しかし投石用ならなぜこんな引っ込んだ場所に置くのか、理解に苦しみます。 石の大きさは拳大から子供の頭くらいのものまでいろいろ。経塚か、耕作の際に邪魔な石を集めただけにも見えるんですが。。。
堀1は東側が竪堀になっていますが、西側は中途半端に終わっています。一時全山耕作されたらしく、結構改変されている場所もあるようです。 鉄塔の立つV曲輪あたりからだんだんヤブ城っぽくなってきます。附近には小さな平場が沢山ありますが、どこまで遺構なのか判断が難しい。
堀2はカタチははっきりしていますが、結構ヤブです。大きさもつつましやかなモンです。 堀3は中途半端な竪堀状のもの。これも遺構かどうか怪しいもんです。
W曲輪東の帯曲輪にあった石。こっちの方が投石用っぽく見えます。 配水場の尾根続きには二条ほどの堀切がありますが、峠に対する防御力はゼロに近い。ちょっと背後の守りが心もとないお城ではあります。

神殿(ごうどの)

諏訪大社前宮が大祝家の居住地であった神殿の地。しかし血の凶事もまたここで起こったのであった・・・。 前宮脇には神殿や、諏訪家の内訌について記された解説板もあります。
これが神殿の土塁、この地方でいう「クネ」というやつらしいですが、道路やらなにやらで遺構なのかどうかさっぱりわかりません。 参道手前の低湿地は堀にも見えますが、気のせいですかね・・・。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「諏訪」ICより車5分。

JR中央本線「茅野」駅から徒歩20分。  

周辺地情報

諏訪郡域では上原城桑原城、近世高島城は基本アイテム。近隣では有賀城が見ごたえあり。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の山城」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

「中部の名族興亡史」(新人物往来社)

現地解説板

参考サイト

 

 

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