干沢城は諏訪大社上社大祝(おおはふり、おおほうり)の居城という、実にまったく格式の高いお城です。諏訪大社大祝といえば、諏訪神官の頂点を為す役職であると同時に、大祝の地位は神と同一、自らも信仰の対象として崇められるアラヒトガミとも見なされる聖なる地位。故に諏訪氏は本姓を「神(じん)氏」と名乗ることもあり、武田家を嗣ぐ前に諏訪家を嗣いだ勝頼も、「諏訪四郎神勝頼」と署名しています。
この諏訪氏、神職であると同時に伝統的な武士団でもあり、鎌倉時代は北条得宗家とつながりが深く、北条一門の残党が蜂起した「中先代の乱」でも北条時行(北条高時の遺児)を支援しています。南北朝期から室町期にかけても相次ぐ戦乱により、諏訪氏は武士団としてあちこち出向く必要が増えてきたのですが、大祝の地位にある者は諏訪郡内から外に出てはいけない、という決まりごとがありました。そこで考え出されたのが幼少のころに大祝の地位につき、長ずると職を辞して武士団・諏訪氏の惣領となる、というシステムでした。しかしこれもいろいろ面倒なことがあり、じゃあいっそ役割分担をしようということで、大祝職を嗣ぐ大祝家と、武士としての諏訪氏を嗣ぐ惣領家に分かれ、所領も諏訪盆地を流れる宮川を境に分割、とりあえず居住地は諏訪大社の前宮神殿(ごうどの)で二家仲良く暮らす、というシステムに変化しました。しかし、神聖なる諏訪氏といえどもそこは人間、この惣領家と大祝家がだんだん泥臭い抗争を始めるようになります。最終的には惣領家が神殿を飛び出して、所領のある宮川東岸の上原の地に館を設けます。こちらが上原城の前身です。一方の大祝家も、「勝手にせい」とばかり、自分たちの居城を築きます。これが干沢城です。
で、ここに諏訪継満なる人物が大祝家に登場します。この継満、神の血を引く神聖な家柄のくせに野獣の心を持っていたようで、文明十五(1483)年正月八日、神事にかこつけて神殿に惣領家の諏訪政満を呼び出し、酒に酔わせ油断したところを嫡子の宮若丸、政満の弟・小次郎ら一族もろとも刺し殺してしまうという、なんとも腹黒い所業に及んでしまいます。正月早々のこの暴挙に惣領家の一族のみならず、大祝家の神職にあった者たちも大激怒、「おのれ神殿を血で汚す外道め、許すまじ」とばかり干沢城に攻めかかります。結局干沢城は落城し継満は降伏、高遠に去っていったということです。
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干沢城平面図
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干沢城がいつまで存続したか分かりませんが、武田軍の諏訪侵攻に呼応して高遠頼継が杖突峠を下って攻め込んだ際に高遠頼継がここに陣取り、安国寺附近を放火したともいわれます。しかし干沢城がもし現役で機能していたら、当然頼継もこれを落とさずに杖突峠は越えられなかったでしょうし、安国寺周辺で好き勝手をやらかすことも出来なかったでしょう。実は天文八〜九(1539-40)年に諏訪地方を襲った大暴風雨により宮川が氾濫、干沢城の城下にあたる安国寺周辺は壊滅的な被害を受けたらしいのです。この災害は諏訪氏の経済基盤をも破壊し、結局は滅亡の伏線のひとつともなっています。こうした天変地異が天文年間から永禄年間にかけて全国で相次いだことが戦国史に大きな影響をもたらした、ということが藤木久志氏らの研究で次第に明らかにされつつあります。また、どうもこの時期、地球的規模の小氷河期に差し掛かっていた、という話もあります。ここ数年、日本のみならず世界的に天変地異が相次いだこともあり、この500年前の気象情報は実に気にかかるところです。それはともかくこの災害により、干沢城も機能を失っていた、と考えることもできそうです。
干沢城は諏訪盆地から国道152号で高遠方面へ向かう際の最初の登り坂、陸橋とトンネルが続くまさに峠の麓にあり、大祝家の居住地でもあった前宮神殿とも直線距離で500mほどの場所にあります。見学にはこの陸橋の真下、安国寺の古い墓石群の立つ谷津から登るのが手っ取り早いです。主郭はまずまず整備されていますが全体に結構下草が伸びており、細かい部分はよく見えません。諏訪郡内では比較的大きなお城ではあるのですが、全体に縄張りはシンプルで、少々あっさりし過ぎているような感もあります。城内には数箇所、投石用の礫石とされる石塚がありますが、W曲輪東側のものはいかにもそれっぽいですが、U曲輪内部のものはナゼ投石用の石を曲輪の真ん中に置くのか、ちょっと解せません。U曲輪のものは経塚などにも見えますがどうなんでしょうか。杖突峠に連なる尾根の鞍部にはおそらく大堀切があったものと思われますが、現在は配水場が建っていてかなり改変されているようで、堀切の痕跡は見つかりませんでした。その背後の尾根には二条ほどの小さな堀切と平場があり、一応尾根続き方向に気を遣っている様子が伺えますが、峠からの逆落とし攻撃にはいかにも脆弱そうにも見えます。
大祝家が日常生活を営んだという神殿は上社前宮の地がそれにあたり、土塁などが残っている、とされていますが、現状は段差などは認められるものの城館らしい遺構は見当たりませんでした。遺構はともかく、ぜひ干沢城とワンセットで足を運んでおくべき場所でしょう。
まあそれにしても、諏訪継満の行いは神どころか畜生にももとる行為、と受け取られても仕方ないでしょう。つくづく人間ってものの欲深さを考えさせられる事件ではあります。。。
[2007.06.27]