甲斐の統一と滅亡と

獅子吼

ししくじょう Shishiku-Jo

別名:江草城

山梨県北巨摩郡須玉町江草

城の種別

山城

築城時期

不明  

築城者

江草氏(?)

主要城主

江草氏、今井氏

遺構

曲輪、石塁、竪堀、堀切、虎口等

獅子吼城の石塁群<<2002年11月03日>>

歴史

築城時期は定かではない。応永年間(1394-1428)には江草兵庫助信泰が居城していたといわれ、この江草氏の跡を、逸見氏系の今井氏が嗣いだ。今井信是、信元は享禄三(1530)年甲斐守護職の武田信虎が北条氏との対立から扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で上杉憲房後室を側室にしようとしたことから信虎と対立、翌享禄四(1531)年一月に飫富兵部少輔らとともに甲府を出奔し御岳に立て籠もった。これに大井信業・栗原氏ら国人領主が加わり、諏訪碧雲斎頼満に援軍を求め大規模な叛乱に発展した。諏訪軍は信虎が下社牢人衆を集めて立て籠もっていた笹尾塁を自落させて進軍したが二月二日の合戦で大井信業、今井備州らが戦死、三月三日の韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら八百が戦死し叛乱軍は壊滅的打撃を受けた。今井信元はなお抵抗したが、天文元(1532)年九月に本拠地の獅子吼城を開城、降伏し、武田氏による甲斐統一が実現した。

天文十(1541)年六月十四日、武田信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は重臣の板垣信方や甘利虎泰らに擁立されて父・信虎を駿河に追い、家督を相続した後は、信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として、また塩川沿いの狼煙中継点として機能した。

天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、六月二日の本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、六月十五日、河尻秀隆は殺害された。その後の武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦った(天正壬午の乱)。この際、北条氏直は若神子城を本陣とし、徳川家康は新府城を本陣とした。この時、獅子吼城には北条勢が立て籠もったが九月、家康配下の服部半蔵、武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らが夜襲を掛けて落城させた。その後和睦が成立し、甲斐が徳川領となると獅子吼城は廃城となった。

甲斐軍のハブターミナル、若神子城から信州峠に向う塩川沿いの、山深い里に獅子吼城はあります。その立地が端的に語ってくれるように、信州峠越えの街道を監視する目的と、光通信網であった狼煙ネットワークの一部として機能したであろうことは容易に想像できます。

武田信虎は甲斐統一にあたり最後の一幕で、逸見今井氏の叛乱を鎮圧します。この逸見今井氏の本拠が獅子吼城です。そしてもう一度、獅子吼城が歴史に登場するのが、武田氏滅亡後の北条対徳川の甲斐争奪戦(天正壬午の乱)において、です。獅子吼城は武田氏による甲斐統一と、その武田氏の滅亡のふたつの大きなターニングポイントで登場することになります。

まず圧倒されるのがおびただしい石塁群です。きちんと積まれているところもありますが、大半は崩れ果て、自然の巨石も混じってある種異様な、というか妖気のようなものまで漂う、すさまじい姿です。よく見ると、崩れた石塁の間に石敷きの通路などがよく残っています。主郭は下草も刈られ、きれいに整備されており、塩川沿いの狼煙台ネットワークなどが見晴らせます、主郭南側には自然石を叩き割った狭い虎口があり、数段の曲輪がありますが、とても人間の手で積んだとは思えない巨石がゴロゴロしています。これも人の手で積んだものなのでしょうか??

場所はイマイチ分かりづらいです。江草集落手前の橋を渡ったら、左手に曲がるのが本来の道ですが、こちらは現在通行止め、逆の右手、根古屋神社前を通り、恐ろしく狭い&急坂&急カーブの道を登ります。ここを登りつめると数件の民家があり、先ほどの通行止めの道に合流します。このすぐそばに獅子吼城の解説板が建てられ、その背後のやや下り坂になっている細い道を歩きます。わからなければ地元の人に聞いた方が良いでしょう。ちなみに根古屋神社(この名前も気になる)方面から歩いて登るルート(これが本来の大手道)もあるようですが、通行可能かどうかはわかりません。

塩川対岸から見上げる獅子吼城。「江草富士」という名前の山らしいですがちょっとそれは褒めすぎだと思います(笑)。橋を渡って左が城址ですが通行止めのため右に行くしかありません。 根古屋神社の前を通って急坂の山道を鉄馬で登ります。根古屋神社には途中で折れてますがとてつもなく大きいケヤキがあります。本来の大手道はここから登るみたいですが通行可能かどうかは不明。ここは居館?
ガードレールのない細い道をガタゴト登った先にある解説板。これを見つけられるかどうかが攻略のキーです。この背後の細い道をやや下ってから登ります。 解説板付近から城址を見る。数件の民家があって結構ビックリします。民家の庭先には城の井戸と思われるものなどもあるらしいです。

後で気づいたんですが、多分堀切です。

これも後で気づいたんですが、竪堀です。本来の大手道に沿って伸びているみたいです。

いよいよ主要部へ。これは枡形と解釈しました。

枡形から、堀底状の道を歩きます。横堀、あるいは帯曲輪に土塁つき、のどっちとでも考えられそうです。

いよいよ目の前に現れる、すさまじい数の石塁、というか石の塊。思わず「なんじゃこりゃ〜!?」と叫んでしまいそうな異様な光景。

これは崩れたのか、崩したのか、それとも自然の地形なのか。。。おそらくそれらが全部混ざっているんだと思う。

ところどころ、整然と並んだ石塁に出くわす。なんかちょっとホッとしますね。

一見無秩序に見えて、実はこの部分はしっかりと人の手が入った石敷き通路だったりします。

異様な石塁とは裏腹に、主郭はよく整備された穏やかな景色。煙突のように見えるのは模擬の狼煙台です。 塩川沿いに若神子方面を見る。すげー山の中みたいに見えて、実は結構若神子城は近かったりする。信州峠越えの重要な街道です。
主郭南側の門?巨石が人がひとり通れる位に割れて(割られて?)います。やっぱり虎口の一種なんだろうなあ。。。 南側には数段の曲輪がありますが、石塁、というよりも巨石がゴロンゴロンしてます。なんぼなんでも人の手で積んだとは思えない。自然地形でしょ?
多分、かなり崩落が進んでいるので、雨の日、長雨の後なんかは結構危険だと思います。山道は険しくはないですが、足許が石塁だらけで歩きにくいです。キチンとした靴でないとちょっと辛いかも。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「須玉」ICより車30分

JR中央本線「日野春」駅よりバス(?)  

周辺地情報

若神子城とセットで見学。こっちはお手軽な公園です。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)、「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)、「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

 

 

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