下社金刺氏の早すぎた没落

山吹城

やまぶきじょう Yamabuki-Jo

別名:萩倉要害

長野県諏訪郡下諏訪町東町上

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

金刺氏

主要城主

金刺氏

遺構

曲輪、堀切、石積み

山吹城主郭<<2005年06月26日>>

歴史

築城時期は不明。諏訪大社下社の大祝であった金刺氏の詰の城とされる。

金刺氏は南北朝期から室町期にかけて諏訪大社上社の諏訪氏と抗争を繰り返した。永正十五(1518)年十二月、諏訪碧雲斎頼満は金刺昌春を攻め、昌春は萩倉要害に立て籠もったが自落して逃れ、隣国甲斐の武田信虎を頼った。この萩倉要害山吹城に比定する説が有力だが異説もある。信虎は享禄元(1528)年八月に金刺昌春を擁して諏訪に侵攻を開始、これに対して諏訪碧雲斎頼満、頼隆父子は「シラサレ山」に陣場を据えて武田軍と対峙した。武田信虎は、笹尾塁を取り立て金刺一族や下社牢人衆に立て籠もらせたが、諏訪軍の侵攻により笹尾塁は闘わずして自落した。この一連の騒乱により金刺氏は没落し山吹城も廃城となったとされる。

信濃の山城はみな険しく、規模も大きいイメージがあるのですが、ここ諏訪盆地は比較的地味で小ぢんまりした城郭が多く、地形そのものも他の地域に比べて穏やかな印象があります。そんな中でも上社系(諏訪氏)の上原城桑原城は比較的有名なのですが、下社系(金刺氏)の城郭はどれもいまひとつマイナーです。金刺氏は本来は諏訪氏よりも血統が古いであろうとされる古代名族なのですが、永正年間に諏訪氏との争いに敗れて甲斐へ逃れ、そのまま没落してしまったことから、城郭的には比較的旧態依然とした縄張を持つものが多いように思えます。

山吹城はそんな下社金刺氏の城郭の中でも「詰の城」に相当し、それなりの規模を持っています。しかしなんとも山奥の引っ込んだ場所にあり、鬱蒼とした山林に覆われて道も定かではなく、一人で歩くのは少々心細いような場所でもあります。イメージ的には詰の城というよりも「隠れ城」という表現がピッタリです。

山吹城は信濃の山城によくあるように前衛の山吹小城と本城に相当する山吹大城からなる複合城郭です。この点では和田街道を挟んで西側に隣接する、同じく金刺氏系の山城とされる上の城・下の城とよく似ています。さらに周囲にも出城、砦の類があるのかもしれませんがそちらは見ていません。大城の主郭Tは土塁に囲まれており、土塁の内側には石積みも見られます。この主郭はどうも神社か何かがあったようにも見え、石積みが遺構なのかどうか何ともいえません。もっとも金刺氏そのものが神社の主なのでこういう遺構もアリか?主郭周囲の支尾根には多少の堀切があるほか、ダラダラとした削平地が果てしなく連なりますが、畑として開墾された時期もあるらしく、どこまでが城郭遺構とみていいのかは分かりません。尾根が四方八方に広がっていて、ある程度の広さが確保できる反面、縄張りにはまとまりが無く防御の重点も絞りづらい気がします。一方、前要害にあたる小城は、ゴミ処分場のすぐ脇あたりの尾根にありますが、こちらも多少の平場と堀切を配しただけの単純な構造です。ただヤブが結構酷く、細かい部分はよくわかりません。

金刺氏は南北朝期から戦国前期にかけて上社の諏訪氏と何度も抗争を繰り返し、最後は萩倉要害を自落させて甲斐へ逃れ、武田信虎を頼っています。一般的にはこの萩倉要害山吹城であるといわれていますが、上の城・下の城をこれに比定する考え方もあります。個人的には上の城・下の城も見てきましたが、切羽詰って最後に立て籠もるとしたらやはり山吹城の方だろうな、と感じています。

一説にこのお城も武田氏の改修を受けたとも言われますが、個人的にはこの奥まった立地はあまり武田氏好みではなさそうだし、何より遺構にキレがなく、ここはやはり永正年間ごろの金刺氏時代の末期ごろ(もしくはそれよりさらに古い)城郭と見ています。ただしこの山吹城と同じく金刺氏系統の上の城・下の城とが連携すれば和田峠越えのルートを完全に掌握できうる戦略的重要拠点であることは確かです。それだけにもうちょっと進んだ遺構がありそうなものなんですけどね。とにかく金刺氏が武田信玄が活躍する時代よりも一回り早く滅亡してしまったため、あまり注目されることもないし桜城、上の城・下の城などの主力城郭を並べてみても、どうも地味な印象はぬぐえません。

大城を見学の際は和田街道の麓、慈雲寺裏手のゴミ処分場を目印に細い道を登り、途中の分岐点で左方向に入るとまもなく左手の谷の中に「山吹城址」の碑が現れます。この碑、もっと目立つ場所に立てればいいのになんでわざわざ谷底に立てるかね。車は一台分しか置くスペースがありません。一方、小城のほうはこのゴミ処分場の真横になります。いずれもかなり山が荒れているので、一人では少々心細いかもしれません。

[2007.06.13]

山吹城(大城)平面図(左)、鳥瞰図(右)

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大城の遠景。あまりにも山深い場所過ぎて満足な遠景写真も撮れません。 車道の左手、谷の中に立つ城址碑。ここから登ります。しかしわざわざ見えにくい谷の中に立てなくても、という気もします。
城址碑の谷底から比高50mほど、道は竪堀を経由して堀切1にたどり着きます。 堀切1に隣接する堀切2。遺構の規模はここが一番大きく、この時点では結構期待が高まります。
U曲輪から見る主郭の切岸。この手前も堀だったような気がします。 主郭はヤブも少なく、明瞭な土塁がほぼ全周していてちょっと驚きます。山の神らしき石塔が祀られています。
主郭周囲の土塁には石積みが随所に見られます。しかしこれが城郭遺構なのかどうかはイマイチ判断に苦しみます。 主郭周囲は尾根が3方向にありますが、明瞭な堀切もなく防御効率は悪そうです。写真のX曲輪は特筆すべき遺構はありませんでしたが、ケモノ臭が濃厚で長く留まる気がしませんでした。。。
これも主郭から伸びる支尾根上のW曲輪。なんかダラダラっとしています。 一応主尾根上のV、W曲輪などはそれなりの広さがありますが、結構自然地形の傾斜を残している部分もあります。
V、W曲輪間の堀切3。ここを掘り切ること自体は順当でしょうが、どうも支尾根の防備が甘すぎるような。 各支尾根には「これでもか」というほどの小さな削平地が続きますが、戦前・戦中に畑になっていた時期もあるらしく、どこまで曲輪と見るべきか判断に迷います。
小城はゴミ処分場のすぐ脇の尾根上にあります。よく見ると山林の中に堀切らしき地形も。 小城の堀切のうち山側(東側)のもの。小城との落差は8mほどあり、ヤブさえなければそれなりに見ごたえがあるはずです。
小城の曲輪の中はヤブばかりで曲輪の形状は辛うじて足の感触で知るばかり。一応東側は土塁で仕切ってあるようです。 山麓側(西側)の堀切も落差、鋭さとも結構あります。しかし小城そのものの規模が小さすぎて籠城戦は最初から成り立たない気がします。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「岡谷」ICより車20分。

JR中央本線「下諏訪」駅から徒歩60分。  

周辺地情報

附近には上の城・下の城がありますが、山深い上に山が荒れておりお勧めしかねます。金刺氏系では桜城・霞ヶ城が比較的行きやすい。初めての方はまず上社系の上原城桑原城と近世高島城は確実に押さえておきましょう。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「中部の名族興亡史」(新人物往来社)

「信州の山城」(信州史学会編/信毎書籍出版センター)

参考サイト

家紋World 信玄を捜す旅

 

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