眼前に拡がる美しい諏訪の湖にかさなる、二人の美しくもはかなき女性の物語。そのひとりは名を禰々といい、武田信虎の娘、兄はあの武田晴信、信玄でした。そしてもうひとりの名は・・・正確な名は不明。諏訪大祝・諏訪頼重の娘、のちに「諏訪御寮人」とよばれた人物。ここでは今年(2007年)の大河ドラマ『風林火山』にならって由布姫としておきましょう。
天文九(1540)年、武田信虎は禰々を諏訪頼重の室として送り込むことで、長年争ってきた武田と諏訪の同盟を図りました。しかしその信虎は息子の晴信のクーデターによって駿河に追われます。電光石火のような政権交代劇ののち、晴信が手をつけた最初の大仕事が諏訪侵攻でした。晴信は甲信国境に兵を進めますが、半信半疑の諏訪頼重は貴重な時間を無為に過ごしてしまい、いよいよ危機に気づいたときには時既に遅し、敵の挟撃を避けるため上原城を捨て桑原城に立て籠もります。頼重にとって不運だったのが、頼重が夜間、桑原城内の備えを検めるために歩いているのを、浮き足立った城兵が見て「頼重が夜陰にまぎれて脱出しようとしている」と解釈してしまったところ。頼重が自らの陣に戻ったときには、城兵の大半は脱走し、残った将兵はわずか二十。もはやこれまで、と覚悟を決めたときに、武田軍から意外な使者が舞い込みます。それは和睦の申し入れでした。助かった、と胸を撫で下ろした頼重、ひとまず武田と和睦し、晴信とともに躑躅ヶ崎館に向かいます。しかし、頼重はそのまま東光寺に押し込められ、謀られたと気づいたときにはもう遅く、頼重は切腹、名門諏訪氏はここに滅亡となってしまいます。
憐れなのは禰々の方、信頼しきっていた兄に裏切られ、夫を奪われ、国を奪われ・・・。のちに晴信は、禰々の方の遺児(虎王丸=千代宮丸)を高遠攻めの際に名目上の諏訪氏後継者として担ぎ出し、諏訪諸勢力の結集に利用しています。憔悴しきった禰々の方は天文十二(1543)年正月十九日、兄晴信を恨みつつわずか十六年の短い人生を終えたという・・・。残された千代宮丸のその後は不明ながらも一説に憎き晴信に復讐を企て、駿河に亡命の途上で捕縛され殺されてしまった、といいます。南條範夫あたりだったらこれだけで短編小説の一本も書けそうなお話です。
そしてもうひとりの女性、由布姫もまた、過酷な運命を背負わされていきます。頼重の娘であった由布姫の美しさに心奪われた晴信は、由布姫を側室の座に据えます。さすがに板垣信方や甘利虎泰らの重臣はこの晴信の挙を諌めたようですが、やがて由布姫は身ごもり、父の仇である晴信との間に一子を設けます。諏訪四郎、この人物こそ武田氏最後の頭領となってしまった、のちの武田勝頼です。父と国とを奪われた恨みと晴信への愛憎入り混じった感情、そして甲斐源氏・武田と神氏・諏訪の血を引く我が子への思い。過酷な戦国に生きたこの美しき女性も、若くして患い、やがて歿していきました。
ふたりの女性にまつわる哀話を残すこの諏訪の湖、その悲劇を招いた張本人である武田晴信もまた、上洛の夢半ばに歿し、その遺骸は遺言により諏訪の湖に還されたという・・・。
桑原城そのものは規模も小さく実に単純なお城です。上原城も「天嶮」というには穏やか過ぎるお城でたが、桑原城も似たり寄ったり、むしろ規模の小ささを考えれば、なぜ頼重が本拠の上原城を棄ててこの桑原城で最後の一戦を試みようとしたのか、疑問に思わなくもありません。いや、むしろ城兵の数が極端に減ってしまって、こんな小さなお城でなければ守りきれないところまで追い詰められていたのかもしれません。いずれにせよ、とても諏訪氏が最後の抵抗場所と定めたお城とは思えないような、ごく小規模で古めかしいお城です。縄張的にも特段工夫されているようにも見えません。しかし、これが実に良いのです。山の上には松の古木が茂り、その先にはニビ色に輝く諏訪の湖が物憂げに横たわっています。どこか物哀しい風景はこのお城の最大の特徴といってもいいでしょう。古城めぐりの醍醐味が「哀愁」にあるとしたら、桑原城はまさに一級品です。
しばしふたりの女性を想い、諏訪湖を望んでみました。諏訪氏終焉の地、桑原城から見下ろす諏訪湖は、どこか儚く、物哀しい色に満ちていました。
[2007.01.20]
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上原平面図(左)鳥瞰図(右)
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