諏訪の侵攻を阻止せよ!

笹尾塁

ささおるい Sasao-Rui

別名:笹尾砦

山梨県北巨摩郡小淵沢町下笹尾

(城山公園)

城の種別

崖端城

築城時期

享禄四(1531)年  

築城者

武田信虎

主要城主

笹尾氏?小田切氏?

遺構

曲輪、堀切、土塁

笹尾塁より七里岩の下を見下ろす<<2002年11月03日>>

歴史

新羅三郎義光が他国の侵攻を防ぐため家臣の某を居住させたといわれるが確証はない。

甲斐守護職の武田信虎は享禄元(1528)年八月に金刺昌春を擁して諏訪に侵攻を開始、これに対して諏訪頼満、頼隆父子は「シラサレ山」に陣場を据えて武田軍と対峙した。武田軍は御射山神戸の合戦で諏訪軍を破ったが、境川の合戦で萩原備中守昌勝ら雑兵200を討ち取られ甲府に帰陣、甲斐北部は諏訪軍に占領された。

甲斐の国人で奉行衆の今井信是、信元は享禄三(1530)年甲斐守護職の武田信虎が北条氏との対立から扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で上杉憲房後室を側室にしようとしたことから信虎と対立、翌享禄四(1531)年一月に飫富兵部少輔らとともに甲府を出奔し御岳に立て籠もった。これに大井信業・栗原氏ら国人領主が加わり、諏訪碧雲斎頼満に援軍を求め大規模な叛乱に発展した。これに対し信虎は、笹尾塁を取り立て下社牢人衆に立て籠もらせたが、諏訪軍の侵攻により、笹尾塁は闘わずして自落した。二月二日の合戦で大井信業、今井備州らが戦死、三月三日の韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら八百が戦死し叛乱軍は壊滅的打撃を受けた。今井信元はなお抵抗したが、天文元(1532)年九月に本拠地の獅子吼城を開城、降伏し、武田氏による甲斐統一が実現した。

また、天文二十一(1552)年には烽火台として取り立てられ笹尾石見守や小田切某が居住していたというが明らかではない。

天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、六月二日の本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、六月十五日、河尻秀隆は殺害された。その後の武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦った(天正壬午の乱)。この際、北条氏直は若神子城を本陣とし、徳川家康は新府城を本陣とした。この時、笹尾塁も北条の陣所として取り立てられたと言われる。この後、獅子吼城の攻防を経て、徳川と北条の和議成立により甲斐は徳川領となり、この笹尾塁も廃城となったと思われる。

この笹尾塁が歴史に登場するのは、甲斐統一前夜、武田信虎が逸見今井氏、大井氏らの国人領主と、隣国から干渉してきた諏訪碧雲斎頼満らの連合軍との騒乱に際してです。この当時、信虎は国人領主や奉行衆の相次ぐ離反、諏訪頼満の甲斐北部侵攻などでかなり切羽詰った状況にあったようで、一時は現在の長坂町、韮崎付近まで諏訪軍の侵攻を許してしまったようです。こうした危機の中、信虎は諏訪大社下社牢人衆を参集してこの笹尾塁に籠らせていたそうです。この下社牢人衆とは、諏訪下社金刺氏の郎党でしょうか?諏訪氏は以前から上社・下社が対立、また上社勢力でも大祝家・惣領家の対立があり、この下社牢人衆とは、その抗争のなかであぶれた者たちだったのでしょう。この笹尾塁は占領された甲斐北部、敵中深くに楔を打ち込む要所だったのでしょうが、結局諏訪軍の前に自落してしまいます。信虎はますますのピンチに追い込まれるのでしょうが、「河原辺合戦」で乾坤一擲の勝利を収めて形勢逆転、最後は獅子吼城に籠る逸見今井氏を降伏させて宿願の甲斐統一を成し遂げます。こうした甲斐統一前夜を物語る場所であるわけです。また、武田氏滅亡後の徳川VS北条の戦いでは、若神子城とともに北条の陣地として取り立てられたこともあり、やはり獅子吼城と同じく、甲斐の統一と滅亡、ふたつの大きな転機の中で登場します。信玄の時代には狼煙台の一部として機能していたようで、中腹には洞窟があり、そこが鐘衝き場にもなっていて、「甲斐国志」には「ここにて鐘を打ち鳴らせば、島原(砦)にて太鼓を打ち相応ずと云伝う」との記述もあります。濃霧のときなんかは狼煙の替わりに鐘や太鼓で危急を知らせたのでしょう。

この笹尾塁は、「塁」とか、「笹尾砦」とか、ちょっと控えめな名前はついているものの、西側は七里岩の断崖絶壁、東側は「城沢」のこれまた深い溺れ谷に挟まれた半島状の地形で、要害としてはこの上ない立地にあります。しかも、城は六つの曲輪に分かれ、東西80m、南北260mの立派な城郭です。一郭、二郭は鉤型に折れ曲がる見事な土塁や鋭い屈曲を伴う枡形などもあり、なかなか本格的です。もっともこのあたりは、天正壬午の乱で着陣した北条による改修かもしれません。三郭は放牧場、四、五郭は農地、六郭は一部は道路工事によって破壊され部分的に藪が残ります。付近の丘陵上には金毘羅社がありますがここも出城として機能したでしょう。一応一、二郭は「城山公園」として整備はされていますが、あまり案内もなく、台地上からだと「城山」には見えないためかなりわかりにくい場所にあります。結局探すのに手間取りすぎて、たどり着いた頃にはかなり夕闇が迫っていて、ろくに見学することも出来ず数枚の写真を撮ってきただけに終わりましたが、なかなか思ったより充実した遺構が見られました。

なかなか見つからなかった城山公園入り口より。台地上からだと城山には見えないからなあ。入り口付近が道路工事で通行止めだったので余計場所がわからなかった。おかげで夕闇がすぐそこに。。。 三郭は放牧場に。ここに黄色いワイヤーが張ってありますが、放牧馬が逃げないための高圧電流(!)だそうで、城山公園に入るにはプラスチックの取っ手を持って一旦ワイヤーを持ち上げねばならない!公園入り口にしてはちょっと危なっかしくないか?濡れた手で触っちゃったら・・・。これは事故が起きる前に改善を望みます。
いよいよ堀切を渡って二郭へ。見事な土橋、と思ったら、概念図によるとここには土橋は無い。後世の改変なのかな? 二郭の背後の堀が「第一の堀」、堀切に相当します。しかし、概念図に描いてある土橋はどこに?
ありゃ、ごまかしようのない光量不足・・・。二郭は鋭く屈曲する土塁枡形になっているのですが、この写真ではちょっとわからないですね。。。 二郭の土塁。なかなか見事です。

一郭と二郭を区分する堀切、というよりは土塁の切れ目と言ったほうが正確かも知れません。

一郭から虎口を見る。堀切ではなく、屈曲のある土塁で虎口を狭めています。片側は城の沢に落ち込む深い谷です。

一郭の先端の土塁も鉤型に鋭く屈曲しています。このあたりには物見や烽火の施設があったんでしょうね。 城の沢越しに見下ろす釜無川の断崖絶壁。新府城なんかと同じ七里岩の断崖絶壁上に構築されています。
近くには「馬場の里」や「金毘羅神社」の案内はあるんですが。「城山公園」はちょっと目だたなすぎですね。入り口の高圧電線とともに、改善して欲しいなあ。。。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「小淵沢」ICより車10分

JR中央本線「小淵沢」駅より徒歩40分またはバス(?)  

周辺地情報

若神子城獅子吼城など。棒道もオススメ。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)、「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)、別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、小淵沢町パンフレットほか

参考サイト

 

 

埋もれた古城 表紙 上へ