新羅三郎義光が他国の侵攻を防ぐため家臣の某を居住させたといわれるが確証はない。
甲斐守護職の武田信虎は享禄元(1528)年八月に金刺昌春を擁して諏訪に侵攻を開始、これに対して諏訪頼満、頼隆父子は「シラサレ山」に陣場を据えて武田軍と対峙した。武田軍は御射山神戸の合戦で諏訪軍を破ったが、境川の合戦で萩原備中守昌勝ら雑兵200を討ち取られ甲府に帰陣、甲斐北部は諏訪軍に占領された。
甲斐の国人で奉行衆の今井信是、信元は享禄三(1530)年甲斐守護職の武田信虎が北条氏との対立から扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で上杉憲房後室を側室にしようとしたことから信虎と対立、翌享禄四(1531)年一月に飫富兵部少輔らとともに甲府を出奔し御岳に立て籠もった。これに大井信業・栗原氏ら国人領主が加わり、諏訪碧雲斎頼満に援軍を求め大規模な叛乱に発展した。これに対し信虎は、笹尾塁を取り立て下社牢人衆に立て籠もらせたが、諏訪軍の侵攻により、笹尾塁は闘わずして自落した。二月二日の合戦で大井信業、今井備州らが戦死、三月三日の韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら八百が戦死し叛乱軍は壊滅的打撃を受けた。今井信元はなお抵抗したが、天文元(1532)年九月に本拠地の獅子吼城を開城、降伏し、武田氏による甲斐統一が実現した。
また、天文二十一(1552)年には烽火台として取り立てられ笹尾石見守や小田切某が居住していたというが明らかではない。
天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、六月二日の本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、六月十五日、河尻秀隆は殺害された。その後の武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦った(天正壬午の乱)。この際、北条氏直は若神子城を本陣とし、徳川家康は新府城を本陣とした。この時、笹尾塁も北条の陣所として取り立てられたと言われる。この後、獅子吼城の攻防を経て、徳川と北条の和議成立により甲斐は徳川領となり、この笹尾塁も廃城となったと思われる。