堅固な山城も歯が立たず

鴨ヶ嶽城

(附・鎌ヶ嶽城)

かもがたけじょう Kamogatake-Jo

別名:高梨城

長野県中野市中野

(東山公園)

城の種別

山城

築城時期

不明(戦国期)

築城者

高梨氏

主要城主

高梨氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土塁、石塁

豪快な堀切<<2004年06月19日>>

歴史

戦国期に高梨氏が中野小館(高梨氏館)の詰の要害として築いたとされる。それ以前に在地土豪の中野氏が築いたともされるが明らかではない。

天文年間には高梨政頼は葛尾城主・村上義清と対立したが、その間隙をついて武田晴信(信玄)が天文十九(1550)年八月に戸石城に侵攻、高梨政頼は村上義清と和睦し、村上義清は武田軍を撃退した(戸石崩れ)。これ以後、高梨氏は武田と対立、武田信玄は井上氏や市河氏などの周辺の諸侯の誘降につとめ、これに対し政頼は弘治二(1557)年七月には井上左衛門尉の守る綿内要害を攻撃している。弘治三(1558)年には武田軍の攻撃により葛山城が落城、同時期に高梨氏の一族で山田城主山田左京亮に降伏勧告し、山田左京亮は降伏、高梨氏家臣の木嶋城主木嶋出雲守も武田方に転じた。身辺に武田の脅威が迫った高梨政頼は鴨ヶ嶽城中野小館にわずかな手兵を置いて、自らは縁故のあった泉氏の居城である飯山城に籠城、景虎の援軍を求めた。この後、高梨氏の拠点は飯山城に移り、実質的に越後長尾氏の庇護下に入った。鴨ヶ嶽城は事実上放棄された。

天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡し、織田信長が信濃を領有したが、信長も六月二日の本能寺の変で横死、八月に上杉景勝が川中島を領有し、高梨弥五郎頼親は安源寺周辺二千貫を安堵され、ふたたび中野小館に戻った。慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封のため、高梨氏も同道し、中野小館は廃城となった。鴨ヶ嶽城がいつ廃城になったかは明らかではない。

以前、高梨氏の館である中野小館を訪れて感動し、その時に背後の山が詰城の鴨ヶ嶽城であることを知って、いつか行きたいと思っていましたが、念願かなって訪れることができました。いざ登る段になってみると、なんとも険しい山容にちょっと腰が引けてしまいそうになりましたが、3-40分も登ればなんとかなるだろう、と自分に喝を入れていざ挑みました。

実際登ってみると、まったく久々に足に応えるくらいの山城に出会った気がします。とにかく山道は急で距離も長く、休み休みの登山となりましたが、予定通り40分弱で山頂に辿り着きました。この達成感は爽快ですね。

で、この鴨ヶ嶽城、登ってみるとよくわかるのですが、西に千曲川に面した中野市街の盆地、東には夜間瀬川沿いに菅平高原へと続く盆地があり、ちょうど平地と平地の間に板を並べたような山で、両側の平地をいっぺんに掌握できる、素晴らしい立地条件にあります。しかも山腹は急峻でとても取り付けず、一筋の尾根だけを守ればよいという、理想的な地形でもあります。

遺構面でも豪快な堀切や尾根筋を段々に刻んだ削平地、木戸跡や井戸跡など、とくに高度な、というわけではないですが山城らしい地形を生かした縄張りが楽しめます。さらに南へと尾根筋を歩くと、支城というよりは鴨ヶ嶽城の出丸にあたる「鎌ヶ嶽城」に辿り着きます。ここには尾根を一直線にぶった切る豪快そのものの堀切と、その堀切に面した土塁の上に夥しい石塁が散らばっていて、ゾクっときます。さらによく見ると、西側の斜面には横堀まで配置してあって、南の尾根筋と西の緩斜面からの敵に備えた様子が一目でわかります。この、南から来る敵とは、まぎれもなく武田軍のことでしょう。

しかし、この堅固そのものの山城も、怒涛の勢いの武田軍には通用しなかったようで、城主の高梨政頼は鴨ヶ嶽城を棄てて飯山城に立て籠もり、越軍の援軍を求めます。一見、飯山城よりもこの鴨ヶ嶽城のほうがよほど堅固に思えるのですが、そもそも高梨氏の周囲は市川氏をはじめ、武田氏の招降工作によってことごとく武田に寝返ったり、村上義清のように故地を追われたりで、政頼にとっては鴨ヶ嶽城に籠城云々というよりも、本領にとどまる事すら危険になっていたのでしょう。どんな堅固なお城でも、お城だけでは支えきれない、そんなことを感じました。

[2004.08.28]

【鴨ヶ嶽城の構造】

鴨ヶ嶽城は、井上一族の分家とみられる高梨氏の平時の館である「中野小館」から、東に400mほど離れた山塊「鴨ヶ嶽」(▲688m)に築かれている。居館である中野小館との標高差は300m以上に及ぶ。鴨ヶ嶽は千曲川沿いの主要街道と、夜間瀬川沿いに吾妻へと抜けるルートのふたつの陸上・水上交通の要衝を同時に監視できる、実にいい立地にある。一方、平時の居館である中野小館は鴨ヶ嶽の山裾の傾斜地にあり、あまり要害性が高いようには見えない。周囲も傾斜地であるので、少なくとも湿地帯ではなかったろうと思う。ではなぜここに居館を置いたか、ということになると、耕作地として適していた、という条件もあるだろうが、決め手となったのは恐らく湧水の存在が大きかったのではないか。山裾の傾斜地や扇状地では、伏流水が地表に噴出する湧水点が見られることが多いが、中野小館の地形もまさにそれに合致する。発掘でも井戸状の遺構や水路、水汲み場などが出土し、現在も露天展示されている。おそらく、最も湧水が豊富な場所を選んで居館としたものと思う。

中野小館概念図(左)、鴨ヶ嶽城平面図(中)、鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。

鴨ヶ嶽城はこの居館の背後、400mほど離れている。戦国期の山城は居館を山麓直下に置いて平素の居住空間と要害地区を一体化したものが一般的である。やがてそれは居館部分が異常に発達した「館城」に変化したり、居館と要害の境目の無い、より近世的な「平山城」へと変化したりするのだが、一方でこうした居館・要害完全分離式の山城も存在する。有名なのは躑躅ヶ崎館要害山の関係や、今川館と賤機山城の関係などである。こうした分離式の山城は比較的古いものであるといえる。

鴨ヶ嶽城の山上の遺構は南北に伸びる主尾根に集中し、すべて踏査したわけではないが支尾根にはほとんど遺構らしきものは見られない。ただ、「七面台」の展望台が設置されている峰は居館との位置関係を考えると出丸であった可能性が高い。事実、数段の曲輪らしきものが認められる。ただし尾根続きに堀切はない。

主要な曲輪は南端の出城である「鎌ヶ嶽城」を含めて4つである。主郭は最高所であるT曲輪とされ、実際に城址の解説板なども建つが、「七面台」経由の山路が大手と考えると、たいした防御ラインもなくいきなり主郭というのも妙な気がする。むしろV曲輪の方が面積もそれなりに広く、背後には大土塁や二重の大堀切を備えていることなどから、こちらを主郭と考えてもいいかもしれない。U曲輪には東山大神が祭られているが、その祭壇の脇の石組みは水の手の跡である。これほどの山の上に湧水があったのだろうか。それとも天水溜だったのだろうか。南側の尾根続きには、二重堀切(堀5、6)を隔てて段曲輪が連続し、その鞍部には浅いが幅の広い堀切6があり、土橋が設けられている。この土橋から段曲輪への進入路には低いながらも土塁が認められ、なんらかの木戸が設けられていたであろう。

W曲輪は「鎌ヶ嶽城」と呼ばれる出城であるが、実質的には鴨ヶ嶽城の出丸、というより一部である。曲輪の削平は甘く、ほとんど自然地形といっていいが、その南端は延長60m以上、深さ8mもある大堀切で隔てられており、曲輪の塁線上には夥しい石塁が見られる。石塁は積んだ、というよりも無造作に置いたような感じなので、投石用のものかもしれない。この曲輪の西側はやや緩斜面になっているが、ここには二重の横堀9、10が設けられている。

鴨ヶ嶽城には、越後流、あるいは甲斐流の改修はまったく行われていないようだ。最終的にはこの地は武田の手に落ちるのだが、攻防の要は飯山城に移っていた。謙信にも信玄にも、高峻な峰に築かれた鴨ヶ嶽城はすでに時代遅れに見えていたのかも知れない。

[2004.08.28]

平時の居館であった中野小館から見上げる鴨ヶ嶽城。堂々たる山容です。中野小館そのものも一見の価値のある、素晴らしい城館です。 登り口はいくつかあるようですが、大悲閣観音堂手前あたりから取り掛かりました。「東山公園」としてハイキングコースとなっています。のっけから急坂、しかも最後まで急坂。。。
途中の峰にある七面台の展望台。ここからの中野小館はこんな風に見えます。周囲には数段の桟敷段のようなものもあり、一応は出城あるいは物見として機能していたのではないかと推測します。 やっと尾根の上に出ると数段の削平地があり、最初の堀切1が現れます。ここまで遠かった・・・。
一応最高所、主郭とされるT曲輪です。といっても細長い尾根上の曲輪で、広くはありません。 T曲輪南側には大土塁と堀切2がありますが、どうも「主郭」というにはちょっと防御が甘いような・・・。
T曲輪とU曲輪の豪快な堀切2。T側で10mほど、U側で3m弱くらい。なんてことのない遺構ですが、山城らしくてこういうのは好きです。 現状では最も見晴らしの良いU曲輪。東山大神が祀ってあり、ちょっとした休憩用のベンチなどもあります。

U曲輪の東山大神の足許にある井戸。湧水というよりも天水溜めだったのではないでしょうか。

U曲輪から西側(中野市街地)の眺望。中野小館は中央やや下に、木々に囲まれた方形空間として見えています。

UとVの間の堀切3、といっても1mくらいしかない小規模なもの。 重厚な土塁に囲まれたV曲輪。主郭と呼ぶかどうかはともかく、最も厳重に守られているように見えます。
そのV曲輪の土塁。高いところで2mほどあり、さらに南側は大規模な二重堀になっています。 V曲輪から見る連続堀切4&5。見所ではありますが、いわゆる越後流のような「これでもか」ぶりはありません。
連続堀切のうち北側の堀4。V曲輪側で10mほどあり、豪快な山城の遺構を残します。 こちらは堀5。V曲輪側で3mほどと、堀4に比べ小規模ですが、長い竪堀に繋がっています。
V曲輪南側の段曲輪。ややハッキリしない部分もありますが、およそ5段ほどが削平されています。 浅い堀に土橋と土塁で虎口を形成している堀6。土塁はごく小規模ですが、尾根上に木戸を設けた様子が伺えます。
尾根上を南に進むとほどなく「鎌ヶ嶽城(W)」に出ます。曲輪の削平は甘くほとんど自然地形ですが、面積はずば抜けて広い。実質的に鴨ヶ嶽城の一部で、堀6から楽に来れるので、ぜひお見逃しなく。 鎌ヶ嶽城の南側の堀切7に面した土塁と夥しい石塁。石塁は積んだ、というより無造作に置いた感じ。やや大きすぎる感じはするものの投石用かなあ。
鎌ヶ嶽城の堀7。ここはスゴイです、このお城で一番豪快な遺構です。土塁を伴い、大規模な堀が延長60mも続きます。 堀7は深さ8mほど、天幅は10m以上あるでしょう。西側はやや屈曲しつつ竪堀へと変化します。
鎌ヶ嶽城の西側山腹の横堀10。曲輪の橋にも横堀9があり、二重の横堀ラインを築いています。 鎌ヶ嶽城の南にある堀8と小規模な土塁。ここは堀6と構造が似ています。この先はダラダラ尾根が続くだけで、実質的にこのお城の南端とみてもいいでしょう。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「信州中野」ICより車15分。

長野電鉄山ノ内線「中野松川」駅または「信州中野」駅より徒歩20分。

周辺地情報

中野小館はセットで必須。飯山城、須田城なども見ておきたい。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

参考サイト

近江の城郭

 

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