以前、高梨氏の館である中野小館を訪れて感動し、その時に背後の山が詰城の鴨ヶ嶽城であることを知って、いつか行きたいと思っていましたが、念願かなって訪れることができました。いざ登る段になってみると、なんとも険しい山容にちょっと腰が引けてしまいそうになりましたが、3-40分も登ればなんとかなるだろう、と自分に喝を入れていざ挑みました。
実際登ってみると、まったく久々に足に応えるくらいの山城に出会った気がします。とにかく山道は急で距離も長く、休み休みの登山となりましたが、予定通り40分弱で山頂に辿り着きました。この達成感は爽快ですね。
で、この鴨ヶ嶽城、登ってみるとよくわかるのですが、西に千曲川に面した中野市街の盆地、東には夜間瀬川沿いに菅平高原へと続く盆地があり、ちょうど平地と平地の間に板を並べたような山で、両側の平地をいっぺんに掌握できる、素晴らしい立地条件にあります。しかも山腹は急峻でとても取り付けず、一筋の尾根だけを守ればよいという、理想的な地形でもあります。
遺構面でも豪快な堀切や尾根筋を段々に刻んだ削平地、木戸跡や井戸跡など、とくに高度な、というわけではないですが山城らしい地形を生かした縄張りが楽しめます。さらに南へと尾根筋を歩くと、支城というよりは鴨ヶ嶽城の出丸にあたる「鎌ヶ嶽城」に辿り着きます。ここには尾根を一直線にぶった切る豪快そのものの堀切と、その堀切に面した土塁の上に夥しい石塁が散らばっていて、ゾクっときます。さらによく見ると、西側の斜面には横堀まで配置してあって、南の尾根筋と西の緩斜面からの敵に備えた様子が一目でわかります。この、南から来る敵とは、まぎれもなく武田軍のことでしょう。
しかし、この堅固そのものの山城も、怒涛の勢いの武田軍には通用しなかったようで、城主の高梨政頼は鴨ヶ嶽城を棄てて飯山城に立て籠もり、越軍の援軍を求めます。一見、飯山城よりもこの鴨ヶ嶽城のほうがよほど堅固に思えるのですが、そもそも高梨氏の周囲は市川氏をはじめ、武田氏の招降工作によってことごとく武田に寝返ったり、村上義清のように故地を追われたりで、政頼にとっては鴨ヶ嶽城に籠城云々というよりも、本領にとどまる事すら危険になっていたのでしょう。どんな堅固なお城でも、お城だけでは支えきれない、そんなことを感じました。
[2004.08.28]
【鴨ヶ嶽城の構造】
鴨ヶ嶽城は、井上一族の分家とみられる高梨氏の平時の館である「中野小館」から、東に400mほど離れた山塊「鴨ヶ嶽」(▲688m)に築かれている。居館である中野小館との標高差は300m以上に及ぶ。鴨ヶ嶽は千曲川沿いの主要街道と、夜間瀬川沿いに吾妻へと抜けるルートのふたつの陸上・水上交通の要衝を同時に監視できる、実にいい立地にある。一方、平時の居館である中野小館は鴨ヶ嶽の山裾の傾斜地にあり、あまり要害性が高いようには見えない。周囲も傾斜地であるので、少なくとも湿地帯ではなかったろうと思う。ではなぜここに居館を置いたか、ということになると、耕作地として適していた、という条件もあるだろうが、決め手となったのは恐らく湧水の存在が大きかったのではないか。山裾の傾斜地や扇状地では、伏流水が地表に噴出する湧水点が見られることが多いが、中野小館の地形もまさにそれに合致する。発掘でも井戸状の遺構や水路、水汲み場などが出土し、現在も露天展示されている。おそらく、最も湧水が豊富な場所を選んで居館としたものと思う。
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中野小館概念図(左)、鴨ヶ嶽城平面図(中)、鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。 |
鴨ヶ嶽城はこの居館の背後、400mほど離れている。戦国期の山城は居館を山麓直下に置いて平素の居住空間と要害地区を一体化したものが一般的である。やがてそれは居館部分が異常に発達した「館城」に変化したり、居館と要害の境目の無い、より近世的な「平山城」へと変化したりするのだが、一方でこうした居館・要害完全分離式の山城も存在する。有名なのは躑躅ヶ崎館と要害山の関係や、今川館と賤機山城の関係などである。こうした分離式の山城は比較的古いものであるといえる。
鴨ヶ嶽城の山上の遺構は南北に伸びる主尾根に集中し、すべて踏査したわけではないが支尾根にはほとんど遺構らしきものは見られない。ただ、「七面台」の展望台が設置されている峰は居館との位置関係を考えると出丸であった可能性が高い。事実、数段の曲輪らしきものが認められる。ただし尾根続きに堀切はない。
主要な曲輪は南端の出城である「鎌ヶ嶽城」を含めて4つである。主郭は最高所であるT曲輪とされ、実際に城址の解説板なども建つが、「七面台」経由の山路が大手と考えると、たいした防御ラインもなくいきなり主郭というのも妙な気がする。むしろV曲輪の方が面積もそれなりに広く、背後には大土塁や二重の大堀切を備えていることなどから、こちらを主郭と考えてもいいかもしれない。U曲輪には東山大神が祭られているが、その祭壇の脇の石組みは水の手の跡である。これほどの山の上に湧水があったのだろうか。それとも天水溜だったのだろうか。南側の尾根続きには、二重堀切(堀5、6)を隔てて段曲輪が連続し、その鞍部には浅いが幅の広い堀切6があり、土橋が設けられている。この土橋から段曲輪への進入路には低いながらも土塁が認められ、なんらかの木戸が設けられていたであろう。
W曲輪は「鎌ヶ嶽城」と呼ばれる出城であるが、実質的には鴨ヶ嶽城の出丸、というより一部である。曲輪の削平は甘く、ほとんど自然地形といっていいが、その南端は延長60m以上、深さ8mもある大堀切で隔てられており、曲輪の塁線上には夥しい石塁が見られる。石塁は積んだ、というよりも無造作に置いたような感じなので、投石用のものかもしれない。この曲輪の西側はやや緩斜面になっているが、ここには二重の横堀9、10が設けられている。
鴨ヶ嶽城には、越後流、あるいは甲斐流の改修はまったく行われていないようだ。最終的にはこの地は武田の手に落ちるのだが、攻防の要は飯山城に移っていた。謙信にも信玄にも、高峻な峰に築かれた鴨ヶ嶽城はすでに時代遅れに見えていたのかも知れない。
[2004.08.28]