大峰山城は善光寺の真裏に聳える大峰山(822m)山頂にあり、長野市街地からは「七曲」と称する恐ろしく急な車道が通っており、山頂まで車であがることができます。ちなみに「七曲」はスノーシェッドに覆われて見通しの悪い急坂・急カーブの車道で、ウデに自信のない人は運転するのに冷や汗ものかもしれないです。が、これほどの高山に車で乗り付けられるのは横着者の自分としては大いに助かります。
ここには「大峰城チョウと自然の博物館」の模擬天守風な建物が建っているのですが、この模擬天守、屋根が緑色だったり、下見板張り部分まで白塗りだったりと、意匠もへったくれも無い無国籍なシロモノで、あやしさ抜群。おまけに、比高差が高すぎて麓からでは豆粒のようにしか見えない。。。こうした模擬天守は地域のシンボルや観光資源として企画されるのがほとんどだと思うのですが、麓から見えない模擬天守というのもあまり意味を成していないような。。。。と悪口ばかり書いたものの、ここの展望台から見る善光寺平、川中島の大パノラマは素晴らしいの一言。この景色を見るためだけでも訪れる価値は十分あります。入館料250円が高いか安いかは見方次第、といったところですが、展望台から目の前に広がる甲越直戦の地の広がりを見たときには、一応入ってみてよかった、と思いました。
大峰山城の歴史はいまひとつはっきりしていません。大峰蔵人という者が在城し、上杉氏の前進基地になった云々ということですが、詳しい城歴は不明としか言いようがありません。しかし、謙信が川中島に着陣するときにはこの大峰山城直下の善光寺(およびその寺域内の横山城)に陣取ることが多かったので、上杉軍の川中島作戦に関係があることは間違いないでしょう。遺構面でもそこはかとなく上杉系の匂いが漂います。
実は、あやしい天守の裏手には中世遺構が割合よく残っていて、巨大な堀切から山腹には長く竪堀が延びています。潅木に遮られてよく見えない部分も多いのですが、山腹には多少の連続竪堀もあるようで、前述の長大な竪堀の存在や、連続竪堀の様子をみても上杉氏関連だろう、と思わせるものがあります。しかし曲輪の削平は実に甘く、縄張りも凝ったものではありません。継続的に改修されたらしい痕跡も感じられないので、ごく短期間利用されただけのお城だったのかもしれません。
中世期遺構を見るには多少の藪コギとなりますが、まあ歩けないほどではないので、見たい方はどうぞ。それ以外の方も、眼下に広がる景色は一見の価値がありますよ。
【大峰山城の構造】
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大峰山城平面図
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大峰山城は善光寺の真裏に聳える大峰山(822m)山頂一帯にある。麓との比高差はおよそ420mほどである。今ではここに「チョウの博物館」の模擬天守風な建物が建っている。このあやしい天守によって城跡はかなり破壊されているのではないかと危惧したが、中世城郭としての大峰山城は比較的よく残っている。峰上の主な曲輪は現在チョウの博物館になっているところを含めて4箇所、現在駐車場となっている平場を曲輪として考えれば、5つほどの曲輪があったことになる。
主郭をどれと見るかは悩ましいところであるが、とりあえず模擬天守の建つ先端のT曲輪と考えてみた。もっとも、博物館附近はあやしい天守造営や駐車場建設などで旧状は大きく変わっているに違いない。この曲輪は実は山頂ではなく、背後のU曲輪以下よりも若干低い。一応峰の先端ということで主郭としたが、違っている可能性も高い。
その背後の曲輪(U曲輪)は両端を大型の堀切1、2で区画されており、ここを主郭と考えてもよさそうだが、いかんせん面積が小さすぎる気がする。V曲輪もまた面積が小さく削平も不十分で、これも主郭とは言い難い。W曲輪は面積も広く削平も十分な上、ほぼ城内の最高所にあたるためこちらを主郭と考えたくなるところであるが、尾根続きの処理が堀5で区切られているのみで、やや中途半端である。この堀5自体、他の堀切に比べて浅い上、どうも鉄塔工事の通路としても使われたようで、城郭遺構に見えない部分もある。こうして見ると消去法で残ったのがT曲輪、ということなのである。
この城全体にいえる事は、縄張りが至極単純であること、削平が非常に甘いこと、その割に堀切・竪堀が大規模であることなどである。極端に言ってしまえば、地山を残したまま、数条の堀切で区画したのみで、それ以外の施設はあとからとってつけた程度のものしかない。堀切から繋がる竪堀の落とし方などを見ると、上杉氏の改修が入っているように思えるのだが、おそらく利用されたのはごく短期間だったであろう。武田氏による改修は無かったであろう。直接的には、善光寺を駐屯基地とする上杉氏の詰の城兼指揮所、もしかしたら善光寺勢力の逃げ込み城としての性格なども持っていたかもしれない。
[2005.01.18] |