五度に及ぶ川中島の甲越の戦いの中で、最も長期にわたる対陣となったのが天文二十四(1555)年の第二回目のものです。この時の合戦は「大塚の対陣」「二百日対陣」などとも呼ばれ、本格的な戦闘はほとんど無いまま犀川を挟んで対陣、最後は今川義元の仲裁で双方とも兵を引き上げています。この対陣のきっかけは武田軍が善光寺別当の栗田氏内部の対立を利用して、山栗田氏を味方につけて旭山城を取立てたことに危機感を抱いた長尾景虎(上杉謙信)が出兵したことにあります。越軍はこの旭山城を封殺するために葛山城を取立て、結果として裾花川を挟んで2kmの距離で双方の要塞が睨みあうという一触即発の展開となります。
このとき武田信玄は自ら南信濃へ出兵して木曽谷を攻撃中でしたが、ただごとならぬ展開に木曽での作戦を切り上げて川中島へ急行、犀川沿いの大塚の地、この大堀館に陣を取ります。「大塚の対陣」といわれる所以です。この両軍は犀川を挟んで対陣するも、お互いに決め手を欠き、数回の小競り合いがあった以外はかなりダラダラした空気が流れていたようです。甲軍は兵站線が長く兵糧の補給に苦しみ、信玄は各地の関所に兵糧のスムーズな通行を指示するとともに、援軍の今川氏からの物資は関所の通行のみならず、宿所の伝馬も自由に利用できるようにせよ、と命じています。さらに、モチベーションの低い連中のために、いまだ手に入れていない敵方の地を恩賞として与えるという、空手形まで発行しています。あくまで「利」で縛ろうというのがこの人らしいともいえます。
一方の越軍、長尾景虎本人はやる気満々で「晴信に対し興亡の一戦を遂げるべし」なんて、バルチック艦隊に向かう帝国海軍ばりにテンションが上がっていましたが、実際にはこのダラダラした展開に陣中の綱紀も乱れ、喧嘩を始めるヤカラや、勝手に陣払いしてしまう連中が絶えなかったようで、景虎は各将に五箇条の誓詞を提出させて綱紀粛正を図っています。曰く、「景虎が何年在陣しても、自分のことはさておいても馬前を走り回ること」「喧嘩や無道を働く者は即成敗すること」「一度退陣して、さらに重ねて出陣をする際も、我が身一騎でも馳せ参じること・・・」片や空手形で配下の者を繋ぎとめている一方でこの強権ぶり。逆に言えば、「越後の虎」と称された景虎も、未だこうでもしないと独立志向の強い越後の国人領主たちを統制するのが困難だったのでしょう。ちなみにこれだけ言ってるにも関わらず、「第三回」の際には、平林城主の色部勝長などは、何度も催促されてやっと重い腰を上げているような有様でした。
さてこの不毛極まりない200日にも及ぶ対陣、最後は今川義元の仲裁で和議が成立、その条件は旭山城の破却、信玄に信濃を追われた国人衆の本領回帰などであったのですが、すべての発端となった村上義清の葛尾城の復帰までは条件に織り込まれませんでした。このあたりからすでに川中島の領有をめぐる争いは本来の目的からピントが外れ始めているような気がします。大体、「今川義元の仲裁」といっても、その義元は武田氏と同盟下にあり、事実この対陣でも一宮出羽守らの援軍を派遣しているわけで、双方に利害のない第三者の仲介ならともかく、一方の陣営に加担している者が和議の仲裁をするなど、多少トンチンカンに思わないでもありません。双方とも、鉾先を納める口実が欲しかっただけなのかも知れません。
大堀館は昭和二十年代頃までは空堀がよく残っていたらしいですが、今は中学校の敷地になり、校庭の脇にポツンと石碑が建つのみです。それでもここで、甲越の両雄が半年以上にも及ぶ不毛な時間を費やしていたのかと思うと、多少の感慨も無いではありません。
[2005.06.18]