東林寺城は牛久城、足高城などを拠点とした岡見氏の属城と思われますが、歴史的な詳細はよくわかりません。「日本城郭大系」では「その他の城址」に一行だけ書かれている程度です。この日、一緒に歩いた五郎さんに頂いた「訓馬村裁許絵図」という古絵図には、牛久城・牛久陣屋が大きく描かれていますが、その左隅、方角でいえば西側に、上総坂田城を髣髴とさせる直線連郭式のお城が描かれています。これがこの東林寺城です。
東林寺城の立地は牛久城の台地と平行するように北から南へ牛久沼に突き出した半島状台地にあり、牛久城の台地とは谷津を挟んでわずか500mほどの場所にあります。このことから、牛久城と密接な関係を持った支城であることが推測されますが、単に「支城」というだけでは留まらない規模を有しています。残念ながら台地先端の主郭部は土採りで消滅してしまったため、全体の縄張がどうであったかはわかりません。しかし残った部分や前述の古絵図を見ると、曲輪の広さや堀の規模は非常に大きく、全体的な雰囲気としては上総坂田城と非常によく似ています。特に曲輪の大きさは尋常ではなく、いったい何のために構築されてどう使われたのか、議論の噴出するところであります。「牧と一体化した城郭」「坂田城主・井田氏の築城」「実は近世城郭」などなど、いろんな意見が出ました。坂田城の井田氏は北条氏により、岡見氏救援のために度々牛久在番を命じられており、行き来するのがめんどくさくなった井田氏が築いた(築かせた)、というのがソレガシの想像ですが、もとより何の証拠も無く、雰囲気だけで書いている乱暴な意見のため全くアテになりません(^^;)
ただ、牛久城も外郭まで含めると相当に巨大な城郭であるのに、その牛久城と近接したこの東林寺城をここまで大規模に造らなくてはいけなかった理由がイマイチ理解できません。
前述のとおり主郭部が消失しているため遺構は主に台地基部の堀切、土塁などに限られますが、これは非常に大規模です。土橋は車道になっていますが、当時も土橋だったのか、引き橋だったのかは分かりません。堀には大きな屈曲が付いており、その点でも坂田城の三・四郭堀切を彷彿とさせます。少なくとも個々の遺構も、全体的な縄張りも、岡見氏のお城である牛久城や足高城には全然似ていません
足高城の頁で触れた「東国戦記実録」によれば、あの幻の名将・栗林義長がこのお城の直下の東林寺に葬られた、ということらしく、また東林寺の過去帳にも実際にその名が見える、とのことです(見てません)。とすると栗林義長、「幻の名将」などではなくてホントにいたんじゃないか!?そんな気にさせてくれます。まあ「東国〜」の歴史的信憑性を云々しても始まらないので、ここで「東国戦記実録」から「栗林義長病死ノ事」を紐解いてみますと・・・
「さても多賀谷修理大夫重経は岩崎の城へ引き退き味方の勢を数えるに七、八千も不足なり」
#これは天正十五(1587)年六月の多賀谷重経の足高城攻略失敗を指してるものですな。このとき義長が挙げた首級は三千二百余、というが、そりゃナンボなんでも多すぎないかぇ!?
(中略)「栗林下総守義長は思いのままに敵陣を打ち破り大勝利を得て足高の城に入り、岡見父子に見えければ、入道殿始め御悦び斜めならず、千葉攻めの功として諸将士卒に至るまで御加恩御感状等を下されその上御酒肴を下されければ、諸士勇み悦びこの上は岩崎へ押し寄せ多賀谷父子が首を得ん事このときなりと勇々敷きこそ見えにける」
#はあ!?今、多賀谷を破って帰ってきたのに「千葉攻めの功」!?そんなトンチンカンな論功行賞があるかいな。しかもこの頃の岡見サン、多賀谷にジワジワ追い詰められて、「諸将士卒に至るまで御加恩」なんて、とてもとてもそんな余裕ないと思うぜぇ。。。
とまあこんな調子の物語で、この後、義長が病に倒れた後、十三歳の嫡子、亀五郎に、足高城が落城したら落ち伸びよ、と説得する場面では楠木正成の「桜井の別れ」を持ち出したりする実に大げさにしてドラマチックな展開。その亀五郎に六韜三略を渡しながら遺言、「多賀谷佐竹を攻め滅ぼし上洛して父が本懐を達せばこれにましたる忠孝なし」などと云う。「エッ義長のダンナ、上洛することが夢だったんですかぃ!?」などとまたまたツッコミ。こうしてわずか一章を読む間にもツッコミどころ満載の素晴らしいお話が「東国〜」の世界なのですが、この章の最後に重要なる文言が!
「(略)義長今は心置きなく合掌し眠る風情に息絶えける。この事、主君へ上申しければ岡見入道甚だ歎息せしか、しかして有るべき事ならねば寺田佐渡に仰て葬送の式を執り行い荼毘の煙となし一七日追善供養し布施として永楽銭五十貫目文、玄米百俵菩提所に賜られける(中略)盛者必衰会者定離とは云いながら哀れなりける事ともなり岡見代々の寺は常州新治郡高岡村大雄山法雲寺なるが道遠しとて牛久城の北山に送り一宇を立て福壽寺山東林寺と号す」
なんと東林寺は岡見宗治が義長の菩提を弔うため建立したお寺だと!この東林寺、附近で見つかった室町後期の大きな五輪塔があります。もしかしてひょっとして、栗林義長の・・・・!!??