小田城の構造 |
上へ 小田城の構造 小田城散策(1) 小田城散策(2) 小田城の発掘・保存・整備 |
【小田城の構造】 小田城は筑波山系南端の宝篋山(▲461m)西麓の山裾が桜川沿いの低地に向かって伸びる先端の微高地に築かれた平城である。現在の小田集落の中心部の大半が城域に含まれる。かつては西から南にかけての前面に桜川の氾濫原に繋がる沼地が広がっていたと考えられるが、現在は土地改良されて水田となっている。この低地からの高さは西端附近で3-4m程度、低いところは数十cmしかない。全体にゆるやかな傾斜地ではあるものの、全くの平城と考えてよい。近世初頭に廃城となっているので(一部には陣屋が置かれたが)多少近世的な改修も考えられるが、おおむね中世の遺構をよく残していると考えられる。もちろん宅地化や耕地整理、あるいは戦前の鉄道敷設(現在は廃線)などで破壊された部分も多いが、残存部分だけでも恐らく全国でも屈指の中世平城遺跡では無いかと思う。 現状見られる小田城の構造は左回りの渦郭式に近い縄張り構造を持ち、主郭の周りに幾重にも堀と曲輪が取り巻いている。主郭(T曲輪)は方120mほどのほぼ完全な方形で、築城当時は周囲の堀も一重程度の、ごくありふれた単郭方形の館だったであろう。小田城は南北朝期から戦国期まで、幾度も実戦を経験しているので、その都度拡大されて、現在見られる壮大な平城に変化したのであろう。最外郭は耕地整理や用水路敷設、宅地化などで遺構はほとんど残っていないが、往時は東側の低丘陵「前山」まで取り込んだ惣構え的な大外郭を持っていたともいわれる。 主郭周囲の堀(堀1)は北東側は埋められ、その他の三方は水田となっているが、その痕跡は十分に追える。外郭部を含め、堀は基本的にほとんどが水堀であったようだが、傾斜地でもあるため水のある部分と無い部分が混在していただろう。また桜川はそれほど水位が多い川ではないため、季節による水位変動も大きかっただろう。主郭の北西面の堀では発掘によって畝堀が検出されたとのことであるが、これも防御遺構としての意味合いだけでなく、水位変動に備えた「水戸違い」的な意味合いがあるのかもしれない。こちらは現在埋め戻されていて現物を見ていないので断定はできない。集落の中の堀は埋められていたり、堀の中まで宅地化されていて全体像は追いかけにくいが、長久寺周囲の水路、小田小学校周辺の低地(堀2、5、6など)などに名残をとどめている。注意して歩くと、道路のところどころに凹みがあるので、その周囲を見ればある程度堀の延びている方向を推測できる。長久寺周囲の堀(堀10)などは今でも水を湛えており、一部水路となっている部分も泥田堀の名残を伝えている。 最外郭はほとんど遺構を残していないが、集落の西側の低地に面した切岸状の地形などは当時の名残と考えられるかもしれない。また、城域の南西側を走る水路は一部が外郭の堀であった可能性もある。集落西端附近では民家の庭先の土壇などに土塁の痕跡を残しているように見える。また、主郭から東に500mほど離れた解脱寺の裏手から南側にかけても、水田の中に帯のように低地があり、最外郭かどうかは別としても堀の痕跡と思われる(堀11)。ただ、前山を取り込んだ「惣構え」の存在については必ずしもその外郭ラインが明瞭ではないため、遺構面からは即断できない。 土塁に関しては、主郭の三方に残る櫓台以外には現存する箇所は極端に少ない。これは土塁がなかったのではなく、突き崩されて田畑に転用されているのである。小田幼稚園の東側(堀2)などは堀に沿って明白に帯曲輪状の微高地が続いているが、これなどは土塁を崩して堀を埋めた痕跡であろう。主郭周囲の犬走り状のもの(現在サイクリングロードが通っている)も同じである。明瞭に土塁が残る場所としては、小田小学校の北側脇の稲荷社附近、および小田小学校の東南の民家の庭先などである。特に後者は高さ4m、長さ20mほどの、残存土塁中で最大のものである。また、信太曲輪(X)の南端にも櫓台状の土塁が残っており、小さな祠が祭られている。その他は前述した外郭西端附近、および大手門と想定される附近にわずかに痕跡がある程度である。 古絵図などによると、小田城では虎口の前に馬出しが多用されている。そのほとんどは湮滅してしまっているが、信太曲輪の馬出しなどは線路敷によって分断されていてパッと見た目では分かりづらいが、明瞭な馬出しである。志田曲輪の南、Y曲輪の南も馬出しと見ていいだろう。また、主郭の南西のW曲輪にも馬出しであったことが古絵図や発掘で検出された堀などから明らかである。堀は埋め戻されているが、微妙な凹凸は残っている。小田幼稚園敷地附近にも馬出しがあり、その一部は道路となって痕跡が残る。長久寺裏手の集合住宅が建つ附近も一種の馬出しであると考えられ、道路とそこから伸びる農地にわずかに痕跡がある。 【前山城】 前山城ついては小田城の詰の城、とも考えられているが、実際に「詰」を期待できるほどの要害地形でもなければ施工規模も大きくは無い。あくまでも支砦のひとつとしての評価の方が適切に思える。ただし、南北朝期に高師冬が小田城を包囲した際に、東側の高峰である宝篋山に陣取った、とのことであるので、前山城は高軍に備えて急遽取り立てられたものであったかもしれない。また、位置的に見れば「後山」とでもいいたくなる場所であるにもかかわらず「前山」というのも気になる。やはり、宝篋山に対する「前」なのではないだろうか。前山の西側が砕石で大きく削られているために断定はできないが、どちらかといえば山側の、東方向に向けた防御になっている点からも、宝篋山方面からの攻撃に備えた支砦としての可能性も考えたい。あるいは、前山の裏手にあった極楽寺との関係も考慮に入れてもいいかもしれない。いずれにせよ、小田城と一体化した外郭の一部であるかどうかはもう少し調査の上、考えてみたい。 小田氏治の時代、氏治は「北条VS反北条」の大きなうねりの中で反北条勢力から北条勢力へ鞍替えし、そのせいで上杉謙信に攻められてもいる。角馬出しの多用や畝堀が検出されたという点からも、北条氏の城郭の影響を考えないわけにはいかない。 しかし、北条氏が小田氏に積極的に加担したかというとあまりそういう形跡も見られない。小田氏が北条を頼ったのも、大きな政治の流れというよりも、周辺勢力である結城氏・佐竹氏などとの確執によるものが大きいだろうし、北条氏としても筑波山麓附近まではまだ直接的に勢力を伸ばしていない。この頃、多賀谷氏が鬼怒川・小貝川筋に勢力を伸ばしており、一方、佐竹氏も南奥州方面に戦線が向いており、筑波郡域や真壁郡域はある種のエアポケット状態であったと考えられる(その結果勢力拡大に成功したのが多賀谷氏である)。北条氏としては牛久周辺や飯沼近辺、あるいは下妻城での多賀谷氏との闘いが続いており、小田城で大々的な拡張工事を行えるほどの勢力は及んでいなかったように思える。「小田天庵記」などの軍記物を見ても、小田氏と北条氏のかかわりについてはあまり記述がない。 そう考えると、現在の縄張りとなったのは、梶原政景以降、佐竹氏の支配下に入ってから、と考えた方がいいのかもしれない。「梶原流」という築城方法があるのかどうか、類例が少なすぎて検証は難しいが、壮大な城域の平城形式、それも渦郭式や輪郭式の、主郭を中心とした環状の縄張り、という形は真壁城、土浦城など、大きく見た場合にはこの地方のある種の共通点を感じる。ただしその割に馬出しの存在など、個々の遺構があまり似ていない点は気になるところである。あるいは、織豊系城郭のノウハウを身に付けた佐竹氏が関ヶ原直前に整備拡張したものであろうか。いずれにせよ、もう少し類例を分析してみないといけないと感じている。 [2004.09.05] |
上へ 小田城の構造 小田城散策(1) 小田城散策(2) 小田城の発掘・保存・整備 |