小田城の発掘・保存・整備 |
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【小田城の保存と整備に関する私見】 小田城は昭和十一(1936)年に国指定史跡に指定されている。しかしこれは単なる文化財保護というよりも、小田城が南朝勢力に加担した「勤皇」の象徴ということで、当時の軍部を中心とした皇国史観啓蒙のための国策的な意味合いの方が強かった。その当時どの程度の遺構が残っていたかは不明だが、すでに関東鉄道筑波線が主郭を斜めに横断していた。 国指定史跡になってからも小田城は宅地に近い(あるいは宅地内にある)ということから、少しずつ改変の手が加えられてきた。たとえば、主郭の北東の埋められてしまった堀などは史跡指定範囲であり、かつ史跡指定後であるにもかかわらず、無許可で埋められてしまった場所だという。つくば市の当局者も「なかなかすべてに目が回らなくて」と嘆いておられた。指定範囲そのものも広大な小田城からみればほんの一角でしかない。現在、つくば市が公有化をめざしているが、東半分、および北側はすでに多くの民家が建ち並び、旧観は失われつつある。そもそもこの東側や北側はほとんどが史跡指定範囲外で、かつ市街化調整区域でもない。極端に言えば何をやっても所有者の勝手次第、という場所なのである。 たしかに貴重な遺跡・遺構は残したい。しかし、それが住民の生活を著しく不便にさせるものであってはならない。そのためには、文化財保護法といった法律による保護だけでなく、住民の同意の元、行政と住民が一体化して遺跡を保護しようという仕組みが必要である。史跡指定範囲外であっても、両者あるいは住民同士の協定によって、合意や自主規制のようなものができてくるのが望ましいと考える。もちろんそれを維持するために必要な負担は国や地方自治体などの行政が援助することがより望ましい。とにかく地域住民が史跡の価値を認め、それを愛し、誇りに思って貰えるような、そうした環境づくりが大切だと思う。実際、保存がうまくいっている城址の多くはこうしたボランティア的な住民によって支えられている。2004年8月7日に小田小学校で開催された「小田城跡をめぐるシンポジウム」では、猛暑の中、多くの地元の方が参加されていた。みな小田城に関心が深いのである。こうした催しは我々のような城郭ファンにとっても嬉しいことだが、何よりも地元の住民に関心を持ってもらえる機会をもっともっと作って欲しいと思う。 小田城の整備計画の方も進んでいる。すでに小田城は将来の史跡公園化に向けて毎年のように発掘が行われ、多くの成果を出している。しかし、まだ本丸域の発掘調査だけでおよそ4年、史跡公園全体が実現するのは10年近くも先であるという。本丸周辺以外の、西側や南側の遺構については公有化もしなければならない。いずれにせよ遠大な計画である。その史跡公園では、若干の休憩施設やトイレが建てられると同時に、本丸周囲には土塁の復元や一部埋め立てられている水堀の復元などが含まれるという。休憩施設やトイレについては全く異存が無いが、土塁の復元に関しては慎重にやってほしい、と願うばかりである。少なくとも史実に即したものであったほしいと思うし、自然な形での復元であってほしい。個人的には失われたものは復元しなくても、という気もしないでもないが、このあたりは価値観の違いでどちらが正しいとはいえないだろう。 ただ、将来に向けて解決してほしい問題がサイクリングコース「つくばリンリンロード」の問題である。過去、このサイトや潮風さんの「常陸国の城と歴史」が指摘してきたように、関東鉄道の廃線跡を利用したサイクリングロードが、小田城の本丸を迂回するように西から南へかけて通っているのだが、その場所というかコース取りがいただけない。このコースは本丸の塁壁直下の堀を埋め、さらに「涼台」の直下を通っているのである。一部とはいえ遺構を改変してしまっている上、小田城にとってもっとも絵になる涼台の景観を大きく損ねているのである。ここは小田城の「顔」である。姫路城や彦根城の天守の脇を高速道路が通っていたらどう思うだろうか。レベルはもちろん違うが、同じようなことが小田城で起きているのである。 過去、この点をつくば市の担当者に正したところ、このコースは暫定的なものであって、将来的にはさらに南西側を迂回させるつもりである、という回答であった。しかし、小田城の史跡公園としての完成予想図にはしっかり現在のコースが描かれてしまっている。ふたたび正してみると、公有化の問題や監督省庁の指導などもあり、簡単には手をつけられないのだという。いわば一歩後退である。このサイクリングコースは意外と通行量が多く、レジャーとしてのサイクリングだけでなく通学路などとしても使われている。一度できてしまったコースを遠く迂回させるとしたら、利用者の反発を招くのではないか。レジャー派はともかく、生活通路として利用している住民にとっては現在のコースが「既得権」になってしまうのではないか。このサイトでもその危険性は指摘してきた(攻城雑記その20 国指定史跡・小田城を問う)。その時点と状況は異なるかもしれないが、コース取りの変更が難しい以上、現状のままで半固定されてしまう危険性は十分にある。個人的には発掘が済んだ後に公園化した本丸内を通せばよいのでは、と思うのだがどうだろうか。 [2004.09.05]
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小田城の出土遺物 (「小田城跡をめぐるシンポジウム」(2004.08.07)会場での展示から) |
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陶磁器などの威信財。城主の威信を示すためのお宝である。中国や高麗からの輸入品であるという。 | 小田城に限らず、城址の多くで出土するカワラケ。酒宴などでの儀礼や、日常の生活で用いられていた。 | ||||||||
出土した唯一の鉄砲玉だという。 | 瓦も出土したが、居館などの主要建物は板葺きか杮葺きで、瓦は仏堂のものではないか、とのことだった。 | ||||||||
「国指定史跡小田城跡 現地説明会資料」(2002.12.01、つくば市教育委員会より) |
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国指定史跡小田城跡 現地説明会資料/つくば市教育委員会2002.12.01の「小田城跡遺構配置図」より転載 (着色・線囲い・色文字はウモ加筆)
A・・・直線から緩やかにカーブして内堀跡へ至っていた堀跡を、屈曲させて内堀とつなげている。上幅約7mと他の地点よりも幅が狭く、堀を屈曲させていることから、この付近にも虎口跡があった可能性が考えられる(同資料より転載) B・・・曲輪跡の北東部が掘り残されて、堀跡内へ約2m張り出している。この付近に橋が位置していた可能性が考えられる。土塁跡が堀際まで確認できないことから、土塁の外側に現況で幅約4mの空間があることとなり、この場所が通路になっていたことも想定される(同資料より転載)
なお、2004年8月現在、この部分は埋め戻されていて、馬出しであったことを示す痕跡は地表面でのわずかな凹凸と、上図の「B」部分の堀の一部が見られる程度である。土塁と木橋の位置関係を考えると、同一時代の遺構であるかどうかはちょっと疑問である。 [2004.09.05] |
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