深い森に眠る驚愕の完存中世城郭

小幡城

おばたじょう Obata-Jo

別名:

茨城県東茨城郡茨城町小幡

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

応永二十四(1417)年または鎌倉時代

築城者

大掾義幹または小田光重

主要城主

大掾氏、江戸氏、佐竹氏

遺構

曲輪、空堀、土塁、土橋、井戸

圧巻の堀底道<<2002年04月14日>>

歴史

応永二十四(1417)年、常陸大掾詮幹(あきもと)の三男義幹によって築かれたとする説と、小田知重の三男光重が鎌倉時代に築いたとする二説があるが、大掾氏の系図には詮幹、義幹らの名はなく築城の経緯は不明である。

 

室町期には九代中務大輔義信まで大橡氏の持ち城であった。五代小幡長門守義清はそれまで親交を深めてきた水戸城の江戸氏と不和となり、小田城の小田右衛門成治の助力で文明十三(1481)年五月五日、江戸但馬守通雅の軍と大掾・小田連合軍が小鶴原で激突した(小鶴原合戦)。ただしこの合戦については史実ではないとする説が有力視されている。

 

天文元(1532)年八月、大掾中務大輔春信は江戸但馬守忠通に内通する者により暗殺され、小幡城も留守を預かる秋葉三郎義行が奮戦したが落城、小幡城は江戸氏の属城となった。春信の子、義信は佐竹氏に庇護された。小幡城を奪取した江戸忠通は城主に叔父の江戸出雲守通春を置き、以降二代五十九年支配し、常陸府中城の大掾氏攻略の拠点として整備された。天正十三(1585)年の書状には城将として大塚弥三郎、小幡孫二郎の名がある。このころ城の守りを強化するため、涸沼周辺の土豪が当番制で動員されている。

廃城時期は不明である。一説に佐竹氏により維持管理されたとされるが確証はない。

驚愕の中世城郭です。遠目にはこんもりとした、小さな丘くらいにしか見えないのですが、一歩その鬱蒼とした森の中に足を踏み込むと、「10年前まで城として使われていた」といわれたら信じてしまいそうほどの、ほぼ完全な中世城郭が横たわっています。かなり期待して行ったのですが、その期待を遥かに上回る素晴らしさでした。石垣も天守もない、土塁と空堀の中世城郭というものがどんなものなのか、その典型というか、究極とでも言うべきものがあります。

その見所はなんと言っても堀。「堀底道」の案内表示もありますが、非常に複雑な堀割になっている上に所々強烈な歪み・横矢が掛かっているため全く先を見通せず、自分がどの辺にいるのか、案内板がなかったら完全にわからなくなりそうです。現代人のソレガシにとっても、全くの迷路です。これは侵入する敵兵にも多大な効果があったでしょう。しかも堀の上にはすさまじく高い土塁や櫓台があり、土塁上には「武者走り」があって、道に迷って右往左往している敵兵に、頭上から矢玉を雨アラレの如く浴びせ掛ける寸法です(別に考察)。これほど規模が大きく、巧妙で、かつ完全な状態で残っている中世城郭は茨城県の城郭を代表するものであり、かつ全国的に見ても相当稀少ではないでしょうか。「町指定史跡」とのことでしたが、規模的には「国指定」クラスです。また、要所要所に順路の案内や解説板もあり、主要部分はきれいに下草刈りもされていて、見学もしやすく、地元の茨城町に大きな拍手を送りたい気持ちです。

歴史的にはあまりハッキリしたことが分かっておらず、今は原本も写本も現存しない軍記物『江戸軍記』などで語られる程度です。佐竹氏が改修したという説もあります。しかし戦国期にこの地方は江戸氏と小田氏もしくは大掾氏がぶつかり合う前線地帯であったこと、河和田城とのコンセプトの相似などから、最終的に現在の姿に仕上げたのは江戸氏でほぼ間違いないでしょう。城下には「宿」の字名があるものの集落の発展は見られず、また陸運とも水運とも縁のなさそうな立地であることを考えても、純粋に軍事的な用途に限定された「境目の城」であったのではないかと思います。地形的には比高差も少ない上に周囲の湿地帯もそれほど水量が多かったとも思えず、貧弱ともいえる地形なのですが、それを人工的な普請で徹底的にカバーしようとした努力の形跡が伺えます。また近年、「図説茨城の城郭」執筆者のひとりである石ア勝三郎氏によって小幡城の周囲の台地にも堀・土塁が築かれていたことが明らかになりつつあり、正面から向かい合う二つの拮抗した勢力の緊張感が浮き彫りになってきました。詳細は「余湖くんのホームページ」(小幡城の頁)および「美浦村お散歩団」(小幡山崎外囲い、小幡千貫桜西堀切小幡千貫桜東堀切の各頁)もあわせてご覧ください。

近年、道路開発のための外郭に当たる の曲輪と「大手門」伝承地周辺が破壊される予定で、それがなんとも残念でなりません。しかし遺構はとにかく迫力満点、程よく下草も刈られている上現地の案内もしっかりしており、危険な場所もほとんど無いためマニアからビギナーまで、全ての中世城郭愛好家に赤丸つきでオススメします。

 

 

 

 

城址入り口付近にある案内図。何箇所かに設置されています。ちょっとアバウトな図ではありますが、これがなかったら多分、大多数の人は現在地すらわからなくなってしまうでしょう。 七郭と二郭の間の二重堀の外側から見学順路があります。入り口付近ですでに深い堀と高い土塁に心踊ります。が、こんなもんじゃなかった!

本丸周囲の堀へはいったところ。すでに堀が複数に分岐して、現在地を見失いかけています。写真のような標示が無かったら完全に迷路に迷い込んでしまうところです。 驚異としか言い様のない深い堀底道。両側から迫り来る高い土塁壁が異様な圧迫感があります。これは写真では伝えきれない!行くべし!

しかも堀は所々で分岐し、写真のような折歪みや横矢によって先が全く見えない。 櫓台付近にもご覧のとおりの横矢が掛かっています。城内の地理に明るくない敵兵がどんな目に遭うかは火を見るより明らかです。この城が落城しているなんて信じられません。
高い土塁壁のなかでも櫓台のある場所は極立っています。櫓台はここだけではなく複数あるようです。 櫓台には虎口らしきものがあります。この写真の櫓台の場所は土塁上の武者走りと五、六郭、複数の堀を見おろせる絶好の位置にあります。

四郭と五郭を結ぶ細い土橋。みごとです。 五郭は整備されてはいませんが、ここも非常に高い土塁が見られます。ここは私有地なので、汚したり竹の子取ったりすると、櫓台から矢玉が降り注ぎますので注意。

五郭から六郭への土橋。この先の六郭、七郭は整備されていないようだったので行きませんでした。大手門は七郭にあるそうです。 四郭は主郭虎口前を守る曲輪。ある意味馬出しのような役割の曲輪です。ここにも土塁が見られます。
四郭付近の土塁上の武者走り。 木々が美しい主郭。ここも非常に高い土塁に囲まれています。
主郭を囲う土塁。堀底からでなく、曲輪の内側から見ても十分迫力がある高さ。 主郭内の井戸。水はありませんでした。落城時に姫が金の鳥を抱えて入水したという落城悲話もあります。井戸は二箇所確認されているそうです。
三郭にも土塁がありました。三郭の虎口がわからず塁壁を攀じ登ったのですが、非常に滑りやすく、攻めるに難いことを実感しました。 香取神社付近から見る遠景。何の変哲も無い森のようですが、この中に驚愕の完存城郭が眠っています。当時は周囲は深い沼田に囲まれていたでしょう。この香取神社も出城だったかもしれません。

ここまで完全な中世城郭はそうそうない。ちょっと手を加えれば今でも難攻不落の城郭として十分に通用しそうです。特に土塁&空堀派を自負する方はぜひ訪れて見てください。きっと迫力に圧倒されるでしょう。満足度200%。ところで、各曲輪の「○○郭」という呼び名は現地の案内図に従いましたが、主郭(本丸)の曲輪がどれかについては諸説あるそうです。

 

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「岩間」IC車10分。

JR常磐・水戸線「水戸」駅よりバス。

周辺地情報

超有名な水戸城、あんまり印象に残っていない府中城、など。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「佐竹氏物語」(渡部景一/無明舎)、「佐竹氏 水戸城攻略の道を行く」(古市巧/筑波書林)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、現地解説板、

参考サイト

常陸国の城と歴史美浦村お散歩団

 

 

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