「江戸時代のオフ会」現場を覗いてみよう

守谷城

もりやじょう Moriya-Jo

別名:

茨城県守谷市本町

城の種別 平山城

築城時期

不明(鎌倉期?)

築城者

相馬氏(平将門?)

主要城主

相馬氏、菅沼氏

遺構

曲輪、土塁、堀切

「めくるめく許り」の空堀<<2003年06月08日>>

歴史

築城時期は不明。天慶年間に平将門が親皇を称しこの地に王城を建設したというが確証は無い。相馬御厨は鎌倉期以降、相馬氏が領した。相馬氏は桓武平氏良文流、または良将流といわれ、平将門の後裔を称し、千葉常胤の次男、師常が養子入りしたとされ、将門直系子孫を称しているが定かではない。

鎌倉期の下総相馬氏の居館は高野館などに比定されているが、『千葉大系図』によれば鎌倉初期の胤継が、『徳島本千葉系図』ではその孫の胤親が初代城主であるというが、はっきりしない。鎌倉中期の文永九(1272)年に相馬胤村が死去すると、子息の間で所領争いが生じ、後家の阿蓮尼は幕府に嘆願書を提示して師胤の相続を訴えたが棄却され、胤村の長子である胤氏が下総相馬氏を嗣いだ。所領争いに敗れた師胤らは増尾城に居住していたが、その子重胤は奥州へ移住し奥州相馬氏の祖となった。

応永年間頃には守谷の地は円城寺氏から相馬氏に移ったと見られ、大永五(1525)年とされる足利高基書状に「相守因幡守」と見え、この頃には相馬氏が守谷城に居城していたらしいことがわかる。

天文末期頃に相馬氏にお家騒動が勃発し、相馬整胤の妹婿である治胤が当主となった。整胤は永禄九(1566)年正月二十七日に何らかの事情で家臣に暗殺された。

相馬治胤は古河公方の下に属し、関宿城主・簗田氏の配下で「古河衆」に組み入れられた。永禄四(1561)年の上杉謙信の小田原城攻め、永禄九(1566)年の謙信の臼井城攻めにも従軍している。

永禄八(1565)年に勃発した第一次関宿合戦の後の永禄十(1567)年五月、北条氏康・氏政と簗田晴助の和睦交渉の中で、簗田晴助は「相馬一跡并要害」の併呑を要求、氏政、古河公方足利義氏もこれを認めた。相馬治胤は北条氏への和睦を求め、その条件として守谷城を北条氏ならびに足利義氏に差し出すことを承諾、永禄十(1567)年七月には氏政配下の者が守谷城に置かれ、同月二十七日には義氏奏者の芳春院周興および奉公衆、同心衆が着城した。八月、義氏は晴助に対し、古河城の仕置を仰せ付けている間、守谷へ御座を移すつもりなのでその旨存じ置くように書き送っている。また義氏は十一月には移座予定の守谷城が御座所として窮屈であることや清水曲輪の番衆不足などを指摘し、豊前山城守に対し改善を要求している。翌永禄十一(1568)年五月、北条氏政は守谷城の改修普請を指示している。しかし、この頃北条氏と簗田氏の和議は崩れ、義氏の移座ならびに簗田晴助による守谷城接収は実現しなかった。こののち、治胤は足利義氏の国衆として、北条氏の軍事指揮下に組み込まれた。

天正十八(1590)年の小田原の役で相馬氏は北条氏に与して没落、代わって徳川家康の命によって土岐(菅沼)山城守定政が一万石で入城した。元和三(1617)年、その子定義のときに摂津高槻に移封となったが、元和五(1619)年に定義が没すると子の頼行が幼少のため、再度下総相馬一万石が与えられた。寛永五(1628)年、出羽上山一万五千石に転封となり、廃城となった。

守谷城は千葉氏の一族たる下総相馬氏の本拠地であり、かつまた平将門が坂東独立王国の王城として建設した、という伝説の地でもあります。将門の偽宮伝説はほかにも岩井、取手などにもあり、どれが本当なのかはわかりません。一応現存遺構から判断すれば、戦国期の城郭である、としか言えません。ただ、守谷城は将門の偽宮伝説が長らく信じられてきた場所でもあり、そう信じたい気もしますが、実際にはおそらく、相馬氏が自らの出自にハクをつけるために潤色したものであるのかも知れません。

中世の住人であった相馬氏は奥州に移住し、父祖伝来の地を嗣いだ下総相馬氏はやがて関宿城の簗田氏配下の与力として「古河衆」に組み込まれていきます。千葉六党出身ではあるもののその地理的な関係からか、むしろ簗田氏や古河公方との接点の方が大きかったみたいです。しかし所詮は在地の小豪族、やがて来たる北条VS謙信の時代には難しい舵取りを迫られ、永禄四(1561)年の謙信の小田原城攻撃、永禄九(1566)年の謙信の臼井城攻めなどに従軍しています。その相馬氏に危機が訪れたのが第一次関宿合戦直後。北条氏と関宿城主の簗田氏との和睦条件の一つとして、簗田氏が守谷城と守谷領併呑を望んでいて、北条もそれを認める意向である、とのこと。相馬氏にしてみればたまったものではないですが、いろいろな政治的駆け引きもあって、古河公方足利義氏が鎌倉から古河城に帰還するまでの一時期、御所として利用されることとなり、実際に北条配下の兵卒が守谷城の受け取りに入城しています。相馬氏にとっては一見とばっちり的な条件でも、うまくやれば古河公方側近として立身できるかもしれない、そんな打算もあったのでしょう。結局この守谷城接収・公方移座計画は北条氏と簗田氏の決裂によって実現せず、相馬氏にとっては危機も飛躍のチャンスも逃げていったわけです。

ところでこの守谷城、安政五(1858)年に世に出た、赤松宗旦の「利根川図志」の中、「平将門舊(旧)址」の項に実に面白い記事があります。

「村長の斎藤徳左衛門を訪ひしに、主人喜びて、俳諧師鳥酔がこの里に遊びし時記しし記とう出て見せたり」

わざわざ訪ねてきた宗旦を歓迎して、「さ、さ、上がってまず一杯やってくれ」みたいな会話があったんでしょう、家伝の宝物、鳥酔の書き記した文などを見せて得意になる長老の斎藤徳左衛門なる人のよさそうなおっちゃん。今でもいますよね、お城のことを聞いたりすると大喜びでいろいろ教えてくれるおじいちゃん。そんな感じの人物だったんでしょうねぇ。

「さて徳左衛門文伯道導べして、相馬の偽都の舊址尋て分入るに、先相馬小次郎師胤が城の跡ありて、今に乾壕枡形などの形昔のままに残れり」

今で言う「オフ会」ですな。徳左衛門のおっちゃん、一杯やって上機嫌でお城の案内を受けて立ったんでしょうな。「分け入る」という表現がいかにも藪に突入!という感じでイイですね。江戸時代後期にも藪コギしてお城でオフやってた連中がいるとは。そして藪に突入したら空堀やら桝形やらが昔のままに残っている、「お〜っ!これはスゴイ!」みたいな感嘆の声もあったでしょう。ものすごくリアリティのあるお話ですね。

「畠の中道を東へ廿町余り行けば、大壕曳橋などいふ処あり。平ノ台といふは最高き岡にて、ここぞ将門が住みし所なる。又めくるめく許りの深き塹を渡りて八幡廓に移る・・・」

畑の中をトコトコ歩いて、主郭にたどり着き、「ここに将門がいたんだぁ!」と感慨にふける赤松翁、しかも空堀が「めくるめく深さ」というのはこのお城の遺構を思うとまったく頷けるところです。「利根川図志」はこの他にも関宿城栗橋城など、お城に関する考察も実に面白いものがあります。それにしても、いつの時代も、似たような人間がいるものです。

現状の守谷城の遺構は、台地先端部の戦国期の遺構群と、台地基部の近世に拡張された部分に大きく分かれます。将門の旧跡云々というのはまったくわかりませんが、一応守谷小学校の片隅に「平将門城址」の石碑がポツンと建っています。この守谷小学校を含む、近世守谷城はほとんどが宅地や小学校となっていて、確認できる遺構はごくわずかですが、半島台地先端に位置する戦国期の遺構は実によく残っていて、赤松翁ではないですが、めくるめくばかりの空堀、はっきり残る枡形に「ほほーっ」と唸ってしまいます。この大規模な遺構群はおそらく、幻の古河公方移座計画の際に改修された部分でもあるのでしょう。周囲の湿地はほとんどが干上がり、わずかに残った守谷沼の他は公園かなにかでも作るのでしょうか、さかんに水田を埋めてなにやら工事をやっていました。現状の守谷城は城址公園となっておりますが、派手な改変は無く実にいい感じ、おそらく赤松翁がオフ会をやっていた当時ともそれほど大きく変わらないのではないかと思います。願わくばあまり手を入れずに、このままの状態で残していってもらいたいものです。

小貝川、鬼怒川が織り成す大湿地帯に浮かぶ守谷城。湿地帯はわずかに守谷沼となって残るだけ。この写真正面の半島台地が中世の守谷城になります。

南西から見た守谷城の半島台地。周囲の湿地はなにやら工事が行われ、近いうちにその様相を大きく変えてしまいそうな雰囲気です。

茨城百景にも指定されているという守谷城の城址碑。守谷小学校の前、近世守谷城の土塁の上に建っています。 小学校前の近世守谷城の土塁。この「城内」地区は宅地化などでかつての面影はほとんどありません。
守谷小学校の校庭端に建つ「平将門城址」の碑。しかしこの金網、ジャマだなあ。。。 おお、これはめくるめくばかりの空堀ではないですか!おそらく幻の古河公方移座計画に際して、北条の手が入った場所でしょう。
ちょっとわかりにくい写真ですが、赤松翁も見たであろう枡形のようす。非常によく残っています。 赤松翁が「いと高き岡」と表現した「平ノ台」が主郭と見られ、周囲は土塁で囲まれています。ここは城址公園として整備されていますが、無理な改変が無いのが好感持てます。
平ノ台から見た南東側の虎口の様子。 平ノ台を囲む見事な土塁。一応柵で囲まれているので登ったりしちゃいけないのかな?曲輪から見て2-3mほどの高さがあります。
平ノ台から南西の台地下へ向かう虎口。ここも細長い枡形状になっています。 その下は工事中でよくわかりませんが、位置的に見て舟着場ではないかと思います。
平ノ台から北へ向かう土橋から、これまた見事な堀を見る。赤松翁が「めくるめくばかり」と表現したのはおそらくここではないでしょうか? 左の堀と、さらに北に車道兼公園入口となっている堀があり、二重堀になっています。その間は変形の馬出しのような細長い曲輪となっています。
右上写真の先には二郭がありますが、古図ではここを本丸、としているそうです。この先には「妙見曲輪」があります。 守谷城の周囲には、かつての不毛の湿地を想像させる風景が広がっています。常総の大地らしい、こうした風景が最近はとても好きです。

 

交通アクセス

常磐自動車道「谷和原」IC車10分。

関東鉄道常総線「守谷」駅徒歩15分。

周辺地情報

やはり素朴な城址公園となっている高井城がなかなかいいです。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「常総戦国誌 守谷城主相馬治胤」(川嶋建/崙書房出版)、「利根川図志」(赤松宗旦/岩波文庫)、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史余湖くんのホームページ

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