小貝川に面した相馬一族の城館

高井城

たかいじょう Takai-Jo

別名:下高井城

茨城県取手市下高井

(高井城址公園)

城の種別

平山城

築城時期

長治年間(1104-06)頃 

築城者

信太重国

主要城主

相馬(高井)氏

遺構

曲輪、空堀、土塁、枡形

主郭直下の枡形<<2003年06月08日>>

歴史

高井城の築城時期は明らかではないが、長治年間に信太小次郎重国が信太郡から移り住み築城し、相馬氏を名乗ったという。建武三(1336)年の相馬親胤宛「斯波家長奉書」に高井村の名が見え、相馬氏の知行地であったことを示している。高井城主は代々相馬氏を称し、天正年間に高井下総守直将がはじめて高井氏を称したという。守谷城主・相馬治胤は高井何某の子で、守谷相馬氏に養子入りしているが、高井城主との関係は不明。高井胤永のときに天正十八(1590)年の小田原の役を向かえ、北条氏に味方したため没落した。このときに胤永の三男胤正の子孫が横瀬伊勢守保広を名乗って江戸時代前期まで居住したが、のちに広瀬氏と改め帰農し、廃城となったという。

高井城は小貝川に面した河岸段丘上にあり、主郭附近を中心に比較的その遺構をよく残しています。守谷城主・相馬氏の一族である高井氏のお城で、守谷城の支城として機能していたようです。

高井城をめぐる直接の攻防があったかどうかは分かりませんが、下妻城主・多賀谷氏の南下拡大策に対抗して、岡見氏の支城である谷田部城、足高城などの救援でたびたび出撃していたみたいです。当時の相馬氏一族は関宿城主・簗田氏や古河公方の強い影響下にあり、北条と反北条がぶつかる境目の領主としてのサバイバル策に四苦八苦していたようです。高井城主も相馬氏の動向に従って苦労していたでしょう。

現在の高井城は主郭部が高井城址公園として整備されていますが、現存遺構にはほとんど手がつけられておらず、草取りと遊歩道の整備、解説板の設置がされているくらいですが、それが逆に非常に好感が持てます。城址公園というと整備の名のもとに大々的に改変されて、土塁や堀が妙に角張ったりしがちですが、ここではそういう心配もありません(人もほとんどいませんが)。主郭はほぼ方形で、もともとは単郭の館であっただろうと思います。二郭以下は私有地や宅地になっていて遺構もはっきりせず、自由に見学もしづらい雰囲気はありますが、高井集落の中の妙見社附近は当時の面影を残しています。主郭は一部欠損はあるものの高い土塁が印象的です。また、「桝形」とされる方形の小空間などもありますが、これは桝形というより腰曲輪じゃないかと思います。お城の塁璧の下方にはさまざまな花が植えられた湿地がありますが、これもかつての水堀、または小貝川氾濫原の湿地の名残を残すものなのでしょう。取手市内では最もよく遺構が残るというこのお城、決して大きなお城でも技巧的な縄張が堪能できるわけでもありませんが、気持ちよく散策できるお城としてオススメします。

小貝川の氾濫原に面した段丘上の高井城。段丘は比高わずか10m前後、さして急勾配でもなく、心許ない気がします。 あやめをはじめ、たくさんの花が咲く高井城址公園。あやめ園になっている場所は水堀、というかかつての低湿地の名残でしょう。
主郭直下の「枡形」、といっても枡形というよりは腰曲輪という感じかな・・・。 主郭周囲の土塁は公園化に伴う改変も無く、古城の趣をよく残してます。
主郭も公園の一部ですが、特になんにもありません。というか、我々のようなお城マニアには、周囲に土塁が綺麗に残っているのが何よりではあります。 主郭虎口附近の土塁はとくに高く、櫓門みたいなものがあっても不思議ではない感じです。
右上の虎口を反対側から。 虎口附近に立てられた解説板には復元想像図が。こんなに立派だったかどうかは疑問ですが、小土豪の館らしい雰囲気が伝わってきます。
主郭と二郭の間の坂道が堀です。 二郭は竹藪化していてよくわかりませんが、低い土塁らしいものがあります。井戸もあるとのことですがわかりませんでした。
三郭以下は宅地化でますますよくわかりませんが、民家の裏手などに土塁らしきものが点在しています。 下高井集落にある妙見八幡宮。言うまでも無く相馬氏は千葉氏の一族、妙見信仰は千葉氏から、そして将門から受け継いだ伝統の証でもあります。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「谷和原」IC車15分。

関東鉄道常総線「稲戸井」駅から徒歩20分。

周辺地情報

お隣の守谷市の守谷城は遺構が素晴らしいです。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「常総戦国誌 守谷城主相馬治胤」(川嶋建/崙書房出版)、現地解説板

参考サイト

常陸国の城と歴史美浦村お散歩団余湖くんのホームページ

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