この寺崎城は佐倉城からわずか1.5kmほどの台地上にあり、佐倉城付近からもその台地がよく見えます。佐倉城を見学した帰りに、たまたま通りかかった県道の脇に「佐倉市文化財指定 密蔵院薬師堂 寺崎城跡」の大きな看板がヤケに目に付くため、下調べナシでとりあえず行ってみました。
「歴史」に記載した、千葉胤直の嫡子・胤将が立て籠もった云々、という話は、現地の石碑を参考にしましたが、このあたりのお話はホントかどうかはかなり疑問です。ソレガシがよくお世話になっている「千葉氏の一族」によると、胤将は享徳三(1454)年に亥鼻城で病死している、とありますので、その翌年の内紛劇でこの寺崎城に立て籠もった、ということはなかったと思います。また、馬加康胤が入城した云々、という話も、亥鼻城が炎上して千葉氏の本拠のお城がなくなってしまった状態では考えられないことではないですが、康胤は翌康正二(1456)年に幕府追討軍の東常縁によって敗死しており、仮にこの寺崎城にいたとしてもごく短期間であったでしょう。そもそもこの康胤が居住した寺崎城はここではなく、近くの「用替ヶ丘」という場所だ、という話もあり(「日本城郭大系」)、見学してきた場所がほんとにお城なのかどうかも心もとない、というのが正直なところです。このあたりの曖昧さは、千葉氏の内紛から文明年間に本佐倉城が築かれて後期千葉氏の本拠が定まるまでの「空白の期間」の謎が解明されれば、分かることなのかも知れません。
個人的には、遺構ははっきりしないもののその立地条件を考えれば、小規模な城館か、少なくとも印旛沼、高崎川流域を監視する物見・狼煙台程度の機能は持っていたのではないかと推測します。また、のちに千葉氏が鹿島台に佐倉城(鹿島台城)の築城を開始した後の方がこの立地が生きてくる気がするのですが、それに関する記述等が一切無いのも不思議な気がします。
遺構については、密蔵院薬師堂境内および周辺の墓地付近が曲輪であったと想像されますが、明瞭ではありません。土塁らしきもの、櫓台らしきものはありますが、これとて後世の改変の影響も大きいと思われるので、なんとも判断しかねるところです。ただ、夕暮れ間際に行ったこともあって、夕照に照らされたその景色、眺望は素晴らしかったです。かつての湿地帯が残っていたら、湖面に映る夕陽がさぞかし綺麗であったことでしょう。