安房の雄・里見氏、最後の居城

館山城

たてやまじょう Tateyama-Jo

別名:里見城

千葉県館山市館山

(城山公園)

城の種別 平山城(丘城)

築城時期

天正十八(1590)年

築城者

里見義康

主要城主

里見氏歴代

遺構

曲輪、堀切、空堀・水堀の一部、模擬天守

犬山城を模した模擬天守<<2003年09月27日>>

歴史

天正六(1578)年、安房岡本城に居城していた里見義頼が重臣に築城を命じ、天正八(1580)年には城番を置いたという。その子義康が天正十六(1588)年に大規模な改修を行い、天正十八(1590)年に完成した。この年の小田原の役で、里見義康は三浦半島・鎌倉方面に進軍したが、この行為が豊臣秀吉に「関東惣無事令」違反として、また参陣が遅れたことを咎められ、上総を没収され、安房一国のみを安堵される。慶長五(1600)年の関ヶ原の役では徳川家康の東軍に属して宇都宮を守った功により、鹿島三万石を加増された。この頃には城山周辺に惣構えの工事を行い、鹿島領民が担当した堀は「鹿島堀」と呼ばれた。しかし、慶長十九(1614)年の大久保忠隣事件で、忠隣の孫娘を室にしていた里見忠義は嫌疑をかけられ、結局城の無断改修と召抱えの家臣が多すぎることなどを理由に安房九万二千石を没収、鹿島三万石の替え地として伯耆国倉吉に事実上の配流となった。忠義は倉吉の地で失意のうちに死去し、里見氏は途絶えた。このとき殉死した八人の忠臣の遺骨が密かに館山に持ち帰られ、城山の地に葬られた。滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」はこの八人の忠臣をモデルにしたと言われる。

館山平野を見下ろす独立丘、いかにも城を作りたくなりそうな丘の上に、まるで灯台のように模擬天守が聳えています。天守は、当時の記録によると三層のものだったとのことですが、外容がわからないため、当時の財力や技術から判断して犬山城のものを模したのだとか。ここは館山市立博物館の分館になっていて、ご想像の通り、「南総里見八犬伝」関連の展示物があります(見てません)。

この館山城は、もともと古館があった丘に、里見義頼が計画し義康の代に完成、岡本城から本拠を移します。場所的には館山平野と高の島の港、そして大房崎から江戸湾の入り口を押さえる非常に戦略価値の高い場所で、もともと里見氏関連の城郭があったのではないか?と疑問に思わなくもありません。この義頼−義康の時期は稲村城も廃城されており(個人的には異議あり)、安房最大の生産地であり流通港である館山平野と高の島湊(館山港)を直接支配する城がその時期まで無かった、とは到底信じられないのですが。この館山の地には戦時中には高射砲台、いまでも航空自衛隊の館山基地が置かれるほどの軍事的要衝なのですから。

ともあれ、義康は先々代の当主であった義弘以来続いた北条氏との危うい同盟による均衡を破り、豊臣氏にいち早く接近、小田原の役にも参加するのですが、そこでの遅参と関東惣無事令違反を咎められ、上総を没収されて安房一国に退きます。この「関東惣無事令違反」などというものは秀吉の謀略に他ならず、代々苦心して手に入れた上総半国を失います。それでも九万二千石という領地に比して経済力・戦力が優っていたのは、やはり海上交通を抑えていた経済権益が想像を越えて大きかったのでしょう。しかしそれは家康の謀略によってまたも失うことになります。忠義の伯耆倉吉への事実上の配流。これにより、房総に名を馳せた戦国大名・里見氏は事実上滅亡します。改易の直接の原因は大久保忠隣事件への連座、城郭の無届改修、身上に対して家臣の召抱えが多すぎる、などの理由によるものですが、これも言いがかりにすぎないことは明白です。とくに後者ふたつに関しては、この時点で「武家諸法度」は発令されておらず、城郭の無断改修・浪人召抱え等を咎められる法的根拠は全く無かったのです。それに、上総没収によって、上総に配置していた家臣団を収容する必要もあり、家臣団が石高に対して多いことも、城地を拡張しなければいけない理由も、きちんと正当化できたのです。むしろ、江戸に近い上、江戸湾入り口を抑えられることへの潜在的恐怖感と、豊臣氏との縁のある外様への警戒感から、理由はともかく安房から退去させたかった、というのが本音でしょう。それに万一、大久保忠隣と本当に通牒しあって謀叛を企てたとしたら、対岸の小田原と館山のラインを抑えれば江戸湾はほぼ制圧できますし。

ところで、城地は戦中に前述の高射砲部隊が進駐した際に大きく改変され、本丸・二の丸周辺はほぼ原型を留めていません。とくに本丸は約7mも削平されたといわれ、また「千畳」といわれる二ノ丸推定地も、そのときに残土を盛られたとされています。周囲は現在では公園化に伴う施設が建設され、惣構えの一部であった鹿島堀も一部を除いて埋め立てられ、城郭遺構そのものはごくわずかです。しかし、ほんの少しだけ「戦国大名」里見氏のスピリットに触れられる場所があります。それは本丸南東方面の尾根筋の道で、中世城郭ファンならそこに、尾根筋を削平した馬蹄段、堀切、里見氏お得意の垂直削崖などを見ることができるでしょう。わずかではありますが、本当の館山城に触れられる貴重なスポットです。また、城下の御霊山周辺には空堀、また里見義康の墓のある慈恩院周辺には惣構えの鹿島堀がわずかに残り、周囲の水田もよく見ると横矢状の歪みの面影があることに気付くでしょう。また、前述の尾根筋には、里見八犬伝のモデルになったといわれる、八人の殉死者の墓もひっそりと佇んでいます。江戸期の壮大なフィクション「南総里見八犬伝」を偲ぶもよし、戦国大名里見氏の栄華盛衰を偲ぶもよし、はたまた豊臣、徳川の二大権力の謀略に想像を馳せるのもよし、とにかく里見ファンは来て見て欲しい。たとえ胡散臭い天守であっても、残された遺構がごくわずかであっても・・・

安房第一の商業港、高嶋湊(館山港)からみる館山城遠景。館山平野に屹立する標高75mの独立丘。近世城郭を建てるのにこれほどの立地がほかにあろうか?海城としての位置づけも見えてくるようです。 なんのかんの言っても、青空に映える白亜の天守の姿というのはいいものです。館山のシンボルですな!
もう一丁天守の姿。傾きかけた西陽を浴びた姿がまた美しいのです。ただ、この模擬石垣はアウトです。。。 本丸にある、「里見城跡」の石碑。でも「里見城」とはいわないよな。本丸は大戦中の改変で、7mも掘り下げられて、当時の地形は失われたようです。

イマイチなパノラマですいません。右手の稲村城方面から大房崎、鏡ヶ浦、館山港、自衛隊館山基地。気象条件がよければ大島や富士山まで見えたのですが。狭く山間の地の多い安房にとってこれほどの要地がほかにあるでしょうか?なお里見氏在城時は海岸線はもっと近かったらしいのですが、18世紀初頭の地震による隆起で、陸地はだいぶ広がったようです。

主郭の西側にはこのような馬蹄形の腰曲輪も見られます。こういうところが如何にも「お城」だっていう感じがしますね。

本丸のピーク削平の残土で埋め立てられたとされる通称千畳。二ノ丸だったらしく、発掘の結果、二十四畳程度の建物跡が見つかったとか。

本丸のすぐ南にある尾根には、今はただの通路になっている堀切がある。

南側の入り江状の斜面上に段々に削平された通称厩屋。

その脇の細い尾根上には馬蹄段上の小さな曲輪が連続する。うっ、中世城郭らしくなってきた!

とうとう見つけた、大きな堀切。やっぱり尾根といえばこれでしょう(笑)。この東南の尾根が館山城の本当の意味での最後の遺構か・・・。

城山に葬られた八人の忠臣の墓。里見八犬伝のモデルになったと言われています。

そして削崖。どこまでも無骨な戦国大名・里見氏の城であることを再認識。

城下の「采女井戸」は家臣の印東采女の屋敷跡の井戸だといいます。オフ会のメンバーでお水を頂きました。

慈恩院に眠る里見義康の墓。義康は秀吉に上総を没収され、その子・忠義は配流によって、安房から南関東に名を馳せた里見氏は歴史の表舞台から消えてゆきました。

慈恩院付近にわずかに残る鹿島堀。関ヶ原の論功行賞で鹿島三万石を加増され、その領民によって普請されたと言われています。この奥の泉慶院には青岳尼供養塔があります。

出城でもあった御霊山。

その御霊山の周囲には空堀が残る。ここから館山城の駐車場方面にかけての農地には、よく見ると堀の名残が・・・

大多喜正木氏を嗣いだ里見義頼の次男、正木弥九郎時堯(二代目時茂)の屋敷跡という大膳山。

城山公園の脇の館山市立博物館で買える「さとみ物語」、「房総里見氏の城」は必読。とくに前者は、虚実取り混ぜて語られることの多い里見氏の歴史を紐解く入門書としてオススメです。

お城仲間とともに過ごした旅の記録「安房里見氏と青岳尼オフ」の頁もぜひご覧ください。

 

 

交通アクセス

館山自動車道「木更津南」ICより車90分。

JR内房線「館山」駅徒歩15分。  

周辺地情報

超おすすめは稲村城です。時間の余裕がある方は南条城大井城滝田城白浜城なども。コアな里見ファンは鶴谷八幡宮なんかも。

関連サイト

 

 
参考文献等

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「里見氏の城と歴史」(館山市立博物館)

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」( 川名登 編/図書刊行会)

「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

現地解説板

参考サイト

余湖くんのホームページさとみのふるさと(館山市立博物館)

埋もれた古城 表紙 上へ