興津城は太平洋に面した外房の海岸線から約1.5kmほど奥まった山中にあり、海岸線からの比高は120mほどありますが、夷隅川の上流域にあたる西側の植野集落付近からは30mほどの丘陵に見えます。この夷隅川を下ると大多喜城に至ることから、内陸の大多喜から海岸線へと至る中継点のひとつであったと思われます。天文年間に正木氏が大多喜城、勝浦城を奪取してからは、勝浦正木氏の配下に置かれたようです。ソレガシは行っていませんが、この興津城から海岸に長く伸びる先端、ちょうど国道128号のトンネル附近の尾根上には小規模な削平地があるということで、奥まった山の中のお城ながら、海城としての性格も指摘されています。遺構はあまり目立ったものはなく、かつてここに「ゆうげの城跡保養所」("ゆうげ"とは"要害"が転訛したもの)という施設があったこともあり、地形も改変されていると見なければなりません。基本的には山頂附近にいくつかの削平地と切岸や小規模な堀を施しただけの、ごく簡素なお城であったようです。植野集落から細い道路が通じており、車でも登れますが、狭い上にかなり心細い道です。途中、眺望のいい山の上に民家があったりして結構ビックリします。
この興津城が大きくクローズアップされるのは、大多喜城主の正木憲時が里見義頼に叛旗を翻した、いわゆる「正木憲時の乱」においてでした。
憲時はこの興津城を拠点に葛ヶ崎城を襲撃しこれを奪取、さらに勝浦城をも奪って一時期、勝浦正木氏は岡本城へ難を逃れたといいます。この正木憲時の乱は、憲時が里見義弘の死にあたり、里見領国支配からの独立を図ったものという見方、あるいは義弘死後の上総派(梅王丸派)と安房派(義頼派)の争い(「天正の内乱」)に際して、梅王丸を擁立して義頼に背いたもの、など、その原因には諸説あります。このあたりは確実な史料が無いため、前後の情勢から判断するしかないのですが、里見氏からの独立が狙いならば義弘の死の直後である天正六(1578)年に挙兵する方が合理的ですし、梅王丸を擁立するつもりであれば、義頼が小櫃谷に侵攻を開始した天正八(1580)年四月に上総派に呼応して挙兵する方が自然だったでしょう。では何が原因だったかというと、おそらく里見家の家督争いや独立というレベルの話ではなく、里見義頼の「計略」にあったのではないか、そんな気がします。後世、軍記物で語られるところによれば、義頼が久留里城へ病中の義弘を見舞った際、自分の次男である弥九郎に正木氏を相続させたいと持ちかけ了承を得た、とあります。が、義弘が正木氏領国への手出しを看過するとは考えにくい上、義弘と義頼は晩年不和であったはずなので、義弘がこのような謀り事に乗っていたとは思えません。しかし、義頼がこの話を捏造してリークしていたとしたらどうでしょう。義頼は梅王丸との家督争いに際し、正当性を得るために義弘とこうした約束があったことを捏造して、その支配権を義弘の「承諾」を根拠にアピールしたのではないでしょうか。そして、義頼ははじめから正木氏の領国を蚕食するつもりでおり、そのためにわざと憲時を挑発して挙兵を誘ったのではないか、そんな風に感じます。義頼は里見氏歴代の中でも最も強力な領国支配を行った人物であり、外交面での智謀にも優れていたので、憲時がこうした計略にまんまと乗せられてしまった可能性もあると考えています。
実際、憲時には申し訳ないですが、その挙兵は杜撰としか言いようがなく、周辺諸勢力へのロクな根回しも行わないまま挙兵、緒戦こそ飾ったもののすぐにドン詰まり、長狭の要である金山城を奪われ、自ら奪取した葛ヶ崎城も失い、再びこの奥まった興津城に閉じ込められて、最後は本拠の大多喜城に引っ込んだところを家臣の寝返りによって殺されてしますのです。対する義頼は対立していた上総の家臣団も要領よく傘下に収め、北条氏との同盟も維持しながら、周辺の庁南武田氏、万木土岐氏、勝浦正木氏などの周辺勢力も味方につけて、圧倒的に優位に立っています。
興津城からの景色は素晴らしく、行川、鵜原から勝浦湾にかけての海岸線の絶景がパノラマのように(すげー陳腐な表現)拡がっています。しかし、これを見る憲時の心境は穏やかではなかったでしょう。遠く拡がる海原を見つめながら、追い詰められてしまった焦りと闘い、その挽回策を必死で探っていたのではないでしょうか。