吉宇城は興津城の支城という見方もあるようですが、どちらかといえば勝浦城の糧道確保のための支城ではないかと思っています。勝浦城とは勝浦湾をはさんで向き合う形になるため、糧道確保のみならず、この吉宇城と勝浦城で軍港としての勝浦湾全体を掌握しようとの意図が見えてくるように思います。
吉宇城は「黒ヶ鼻」と呼ばれる切り立った岬にありますが、最初に行ったときはどのあたりが城域なのかはよくわかりませんでした。砂子ノ浦観音堂へ向かう道があり、ここを登ると突端部へ続く、なんとも心細い道がありました。足元は逆巻く海、ちょっと腰が引けつつも突端部近くまで行ってきました。見晴らし、景色は最高なのですが、はっきりと城郭遺構と思われるものはありませんでした。「なんか変なお城だなあ」と思っていたら、「図説房総の城郭」が刊行され、それを見ると、突端部ではなく岬の付け根付近の台地上が主な城域だったようです。で、近くを通りかかった際に再度訪問。今度は心強い味方「図説房総の城郭」を片手に歩いてみると、たしかに「黒ヶ塙隧道」の上の尾根筋には麓からでも堀切が見られ、主郭とされる附近には一軒の民家がありました。この尾根筋が城郭としての主要部で、「黒ヶ鼻」そのものはせいぜい見張りか狼煙台程度のものであったでしょう。先端はおそらく海食でかなり崩落しているでしょう。この突端部の北側には砂子ノ浦、南側には吉尾浦の浜が広がっていて、小さいながらも二つの舟入を持つ海城であったようです。
ここは「正木憲時の乱」の際の激戦地でもあります。里見義頼は正木憲時が挙兵するや、たちまち長狭地方を制圧し、勝浦湾周辺まで迫ります。憲時としては大多喜城から海への出入り口として是非ともこの勝浦湾を制圧したかったのでしょうが、この吉宇城周辺での合戦で劣勢が確実になり、この後細々と興津城に立て籠もることになります。「天分の内乱」における妙本寺砦での戦闘と同じように、この吉宇城をめぐる戦闘が一連の乱を趨勢を決定してしまったといってもいいでしょう。天下国家にまったく関係のない、東国の果ての果て、超ローカル戦争の一幕です。
それにしても、突端部近くの険しい断崖の下に多くの釣り人がいるのには驚きました。前述の「心細い道」も、この釣り人たちのための道なのでしょう。海に降りるにもロープを伝う必要があるし、釣り人の足元には荒波が押し寄せているし、全く釣り人たちのド根性ぶりには脱帽です。願わくば、事故の起こらないことを・・・。