小浜城について書かれた文章を読むと、城主・鑓田美濃守は里見の武将で、里見義頼の命で北条方のお城を攻めている最中に勝浦城主とされる正木左近大夫正春に城を奪われた云々、と出てきますが、ここらへんのお話はかなり眉唾、というかメチャクチャでしょう。おそらく鑓田美濃守なる人物は、「日本城郭大系」で記述されているように、里見の将などではなく万木土岐氏の将でしょう。したがって小浜城は、万木城の支城という位置付けが正しいかと思います。さすがに「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」「新編房総戦国史」などの書籍では、そのあたりをしっかり指摘しています。それに、正木左近大夫正春なる人物はおそらく実在していないでしょう。左近大夫は勝浦正木氏歴代の官途ですが、このような人物は見当たりません。それに、当時勝浦正木氏は里見に与して北条とは敵対していたはずで、北条を攻撃している鎗田氏の居城を奪うとは考えられません。また、「鑓田美濃守勝定」なる人物が築城したとされていますが、天正十六(1588)年に正木左近大夫に襲われたのも同名の人物で、同一人物だとすると明らかに年代が合いません。もしかしてこの小浜城をめぐる戦いは年次違い?それにしても辻褄があわないなあ。。。ということで、この軍記の記述をこう解釈してみました。
「万木土岐氏は天正十六(1588)年、北条の陣触れに応じて鑓田氏らを派遣したが、その隙を衝いて勝浦城主の正木左近大夫頼忠が小浜城を襲撃した。その後、鑓田氏は万木土岐氏の後ろ盾で居城を回復した・・・」。「まったくの作り話」と切り捨ててしまわなくても、一応は筋道の立ったお話に生まれ変わりました。これが正しいかどうかはわかりませんけどね・・・。
現在、夷隅川は小浜城の3kmほど北側に注いでいますが、かつてはこの小浜城直下の大原漁港附近が河口だったということです。夷隅川はこの地方では最大の河川であり、中流域の大多喜城、万木城方面とは水運で結ばれています。この夷隅川流域を抑えた最大勢力は万木土岐氏であり、その勢力は多少大げさであるにしても「十万石」と称されます。その万木土岐氏の海への玄関口となったのがこの小浜城でしょう。当然、勝浦正木氏との「境目の城」の役割も持ち、かつ水軍基地としての機能も併せ持っていたでしょう。
ただ、直接外海に面しているため、海蝕によって地形は相当に変わっていると考えた方がよさそうです。先端なんか、ほとんど崩落しちゃっているでしょう。明瞭な遺構には乏しいですが、一部土塁であっただろう場所がコンクリで固められていたり、城主の居館らしき曲輪があったりします。またお城の南北それぞれに軍船溜りを抱えており、小規模な城郭ながらもその立地と景色のよさもあって、それなりに見て楽しめるお城ではあります。