激戦の地に佇む

八幡館

やわただて Yawatadate

別名:八幡砦

新潟県新発田市八幡

 

城の種別 平城

築城時期

不明

築城者

不明

主要城主

佐々木氏

遺構

水堀痕、推定舟着場

館を取り巻く水堀痕<<2003年08月15日>>

歴史 築城時期や城主等は未詳。天正九(1581)年に勃発した「新発田重家の乱」に当たって、新発田城主・新発田重家は新発田城周辺に多くの城砦を築いたが、この八幡館には従弟の佐々木長助晴信を配したという。天正十一(1583)年九月には、目と鼻の先になる放生橋で、撤退する上杉景勝軍を急追した新発田重家軍との間で激戦となった(放生橋の合戦)。天正十二(1584)年八月、上杉景勝は自ら本軍を率いて赤谷城の小田切三河守を討とうと進軍したが、重家は手勢三千でこれを八幡に迎撃、銃撃戦の後に乱戦となった(八幡表の合戦)。新発田方の浦村城主、山田源八は城を出て奮戦したが討ち死にし、八幡砦も落城した。

八幡館赤橋館池ノ端城と同じく、新発田重家の乱に際し、重家が新発田城周囲に配置した城砦のひとつです。しかしここも砦というよりは在地の小領主の館だったものを、戦時にあたって急遽砦としたものでしょう。現在は田んぼになっている低湿地に面した微高地という立地条件は、赤橋館池ノ端城とまったく同じです。

この八幡館周辺では、天正十二(1584)年に「八幡表の激戦」が演じられました。重家が撤退する上杉景勝軍を猛追して怪気炎を上げた「放生橋」の戦場もすぐ近くです。この附近は低湿地と丘陵地帯の接点にあたるため、陸上交通にとってはとくに重要な地帯であったと思われ、それ故に激戦の演じられやすい条件が揃っていたのでしょう。しかもここは新発田城と並ぶ重家の抵抗拠点の中枢である五十公野城とも目と鼻の先の場所でもあり、直接的には五十公野城の前衛支城としての役割も持っていたでしょう。八幡表の合戦では、附近の浦村城将の山田源八が奮戦しますが、新発田勢はやはり多勢に無勢、次第に敗色濃厚となり、やがてこの八幡館赤橋館も火が放たれて落城します。この館もこれで廃城となったことでしょう。

現在はこの八幡館の地は一軒のいかにも由緒ありそうな旧家の趣のある民家が建っていて、周囲には水路となっているものの、堀の跡が歴然と残っています・この堀は一部で横矢折れもしっかりと見られます。周囲の低台地上も砦の一部として利用されていたでしょう。この民家の敷地内にはもしかして土塁などもあるかもしれませんがこちらは確認していません。

八幡集落の端にある低い段丘上に構えられた八幡館。現在は一軒の民家が建っており、その周囲に堀の痕が歴然です。

民家の門付近、かつて堀であった水路が走り、門の付近では堀が若干折れています。

民家裏手の水路は大きな横矢が掛けられています。遺構面での一番の見所かもしれません。 田に面した段丘にはコの字の切り込みが。これはおそらく舟着場でしょう。

 

交通アクセス

日本海東北道「新発田聖籠」IC車15分。

JR白新線・羽越線「新発田」駅徒歩30分。

周辺地情報 現在、御三階櫓ほかが復元工事中の新発田城がオススメ。池ノ端城五十公野城や、上杉軍の最前線となった笹岡城なども近いです。
関連サイト 新発田重家の乱」の頁もご覧下さい。

 

参考文献 「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)、「新発田市史」(新発田市)
参考サイト  

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