浦村城は、国道290号沿いの「城山温泉」のすぐ脇にあり、比高80mほどの山には「新発田城CC」の大きな看板が建っているので場所はすぐにわかります。「城山温泉」はその名の通り、この浦村城の城山から来た名前ですが、温泉そのものは北東の隣の山にあるのでお間違えなく。
「新発田重家の乱」にあたっては、上杉景勝勢、新発田重家勢ともに多数の城砦を築いて長期対陣に臨みました。そんな中でも五十公野城から南、現在の国道290号沿いは小規模な城砦が特に多く集まっています。いずれも新発田城や五十公野城の支城としての性格はもちろんですが、この国道290号は当時の主要陸路であり、上杉勢と新発田勢が直接ぶつかり合う激戦の地でもありました。この浦村城附近はまさに目の前で「放生橋の決戦」「八幡表の決戦」などが繰り広げられています。浦村城には新発田重家の家臣、山田源八郎が置かれたといいます。山田源八郎なる人物が何者なのかはわかりません。放生橋の決戦では、豪雨の中、この狭隘な場所で退陣する景勝の軍を重家が激しく追撃、あわや景勝本陣すら危ない状況に追い込まれました。まるで「桶狭間の合戦」の焼き直し版のような話です。それはともかく、このとき浦村城の城兵は恐らく景勝軍の動きを逐一監視し、重家本隊の奇襲と機を合わせて横合いから攻撃を仕掛けたに違いありません。
しかし、重家の七年越しの抵抗もジリ貧に、いよいよ景勝が本腰を入れて新発田討伐に取り組み、その第一歩として会津領との連絡を遮断するため赤谷城攻略に向かいます。重家軍は「放生橋よ再び」と思ったかどうか、この隘路で景勝勢を迎え撃つのですが、緒戦は重家勢優勢で進んではいたものの、西側の丘陵である真木山を景勝勢に獲られて万事休す、重家軍は大敗を喫してしまいます。この「八幡表の合戦」において、この浦村城をはじめ八幡館、赤橋館などの城砦群はことごとく落城し、重家の広域城砦ネットワークの一端が遂に綻びてしまいます。浦村城を守っていた山田源八郎も混戦のうちに討ち死にを遂げたとのことです。
この浦村城、ゴルフ場やら温泉やらで遺構は期待できないかな、と思っていたらこれが案外よく残っていました。といっても特筆するほどのものや大規模なものはなく、主郭を中心に小規模な曲輪群や、多少の堀切、横堀などがある程度です。基本的には古いタイプのお城で、戦乱に際して堀切などを付け加えたものでしょう。別段整備されている、というほどでもないのですが、なぜか主郭附近は下草が刈られており、松の樹が数本立っていて、なかなかいい雰囲気です。山頂までは林道が伸びていますが、かなり荒れていて車ではちと厳しいです。麓の墓地附近に車を置いて歩いた方が無難です。
【浦村城の構造】