決戦の地を見下ろす丘

浦村城

うらむらじょう Uramura-Jo

別名:浦城

新潟県新発田市浦

 

 

城の種別 山城

築城時期

不明

築城者

不明勝

主要城主

山田氏

遺構

曲輪、土塁、堀切

古木茂る山頂<<2004年03月21日>>

歴史 築城時期や城主等は未詳。天正九(1581)年に勃発した「新発田重家の乱」に当たって、新発田城主・新発田重家は新発田城周辺に多くの城砦を築いたが、この浦村城には山田源八郎を配したという。天正十二(1584)年八月、上杉景勝は自ら本軍を率いて赤谷城の小田切三河守を討とうと進軍したが、重家は手勢三千でこれを八幡に迎撃、銃撃戦の後に乱戦となった(八幡表の合戦)。新発田方の浦村城主、山田源八郎は城を出て奮戦したが討ち死にしたという、

浦村城は、国道290号沿いの「城山温泉」のすぐ脇にあり、比高80mほどの山には「新発田城CC」の大きな看板が建っているので場所はすぐにわかります。「城山温泉」はその名の通り、この浦村城の城山から来た名前ですが、温泉そのものは北東の隣の山にあるのでお間違えなく。

新発田重家の乱」にあたっては、上杉景勝勢、新発田重家勢ともに多数の城砦を築いて長期対陣に臨みました。そんな中でも五十公野城から南、現在の国道290号沿いは小規模な城砦が特に多く集まっています。いずれも新発田城五十公野城の支城としての性格はもちろんですが、この国道290号は当時の主要陸路であり、上杉勢と新発田勢が直接ぶつかり合う激戦の地でもありました。この浦村城附近はまさに目の前で「放生橋の決戦」「八幡表の決戦」などが繰り広げられています。浦村城には新発田重家の家臣、山田源八郎が置かれたといいます。山田源八郎なる人物が何者なのかはわかりません。放生橋の決戦では、豪雨の中、この狭隘な場所で退陣する景勝の軍を重家が激しく追撃、あわや景勝本陣すら危ない状況に追い込まれました。まるで「桶狭間の合戦」の焼き直し版のような話です。それはともかく、このとき浦村城の城兵は恐らく景勝軍の動きを逐一監視し、重家本隊の奇襲と機を合わせて横合いから攻撃を仕掛けたに違いありません。

しかし、重家の七年越しの抵抗もジリ貧に、いよいよ景勝が本腰を入れて新発田討伐に取り組み、その第一歩として会津領との連絡を遮断するため赤谷城攻略に向かいます。重家軍は「放生橋よ再び」と思ったかどうか、この隘路で景勝勢を迎え撃つのですが、緒戦は重家勢優勢で進んではいたものの、西側の丘陵である真木山を景勝勢に獲られて万事休す、重家軍は大敗を喫してしまいます。この「八幡表の合戦」において、この浦村城をはじめ八幡館赤橋館などの城砦群はことごとく落城し、重家の広域城砦ネットワークの一端が遂に綻びてしまいます。浦村城を守っていた山田源八郎も混戦のうちに討ち死にを遂げたとのことです。

この浦村城、ゴルフ場やら温泉やらで遺構は期待できないかな、と思っていたらこれが案外よく残っていました。といっても特筆するほどのものや大規模なものはなく、主郭を中心に小規模な曲輪群や、多少の堀切、横堀などがある程度です。基本的には古いタイプのお城で、戦乱に際して堀切などを付け加えたものでしょう。別段整備されている、というほどでもないのですが、なぜか主郭附近は下草が刈られており、松の樹が数本立っていて、なかなかいい雰囲気です。山頂までは林道が伸びていますが、かなり荒れていて車ではちと厳しいです。麓の墓地附近に車を置いて歩いた方が無難です。

【浦村城の構造】

浦村城平面図

※クリックすると拡大します。

浦村城は標高100mちょうど、比高80mほどの谷戸を取り込んだU字型の独立丘「城山」にある。最高所のT曲輪が主郭であり、その周囲には同心円状に幅の狭い段郭群が多数取り巻いている。尾根は三方に突き出しているが、遺構が集中するのは西に伸びる林道沿いの尾根続きで、ここに堀5〜8の四つの堀切が連続している。谷戸を囲むもう一方の尾根である北東の尾根には城郭遺構はほとんど見られない。尾根の付け根に小規模な二重の堀切1、2があるくらいである。さして急峻でもない尾根に何も設けないというのも不思議であるが、もともとは主郭とその周囲の桟敷段くらいの小規模な砦にすぎなかったのだろう。背後にあたる南東側の丘陵は現在「新発田城CC」となっているが、尾根続きには数段の腰曲輪があるくらいで、堀切等は認められない。ただし、堀2からこの尾根筋にかけて、段郭の最下段が横堀状に伸びており(堀3)、その端は二重の竪堀(堀4・5)に分断されて終わっている。

基本的に桟敷段を主体とした古いタイプの城郭であることには変わりがなく、城氏の時代までは遡らないであろうが、南北朝期から室町中期の応永年間あたりの戦乱に際して築かれた可能性が高いと思う。新発田重家の乱に際して、急遽新発田氏によって改修されたものだろう。

[2004.08.28]

決戦の地となった放生橋附近から東に並ぶ双子の丘が浦村城。「新発田城CC」の看板が目印です。 古木がいい感じの主郭。整備されている、というわけでもないのですが、地元の方が散歩にでも来るのか、下草もなく、遺構も思ったより残っています。
遺構、といっても基本は主郭周りに段々の小曲輪が取り巻いている、古臭い感じの縄張りです。 ところどころ、切通しの虎口のようなものがありますが、これは遺構なんでしょうか?
北東側に伸びる尾根の根元の堀2。堀切といっても、実質的には腰曲輪に土塁がちょっと盛られた、という程度です。 同じく北東の尾根根元の堀1。ごくごく小規模なものです。
堀1から東側山腹には長い横堀が巡っています。このあたりだけはちょっと新しさを感じさせます。横堀は連続竪堀4・5によって終わっていました。 最も明瞭な堀切遺構である堀5。主尾根にあたる北西の尾根の根元です。この尾根には堀切が連続します。
おなじく北西尾根の堀7。いずれも山側で3m、山麓側で1m強の規模しかありません。 「新発田城CC」の看板附近から見る放生橋の決戦地。「放生橋の合戦」で大勝利を挙げた新発田勢も「八幡表の合戦」で大敗、浦村城も運命を伴にすることに・・・。

 

交通アクセス

日本海東北道「聖籠新発田」IC車20分。

JR羽越本線「中浦」駅徒歩50分、または「新発田」駅よりバス。

周辺地情報 赤橋館八幡館などの小城砦がありますが遺構は明瞭ではありません。比較的明瞭な遺構が残るのは五十公野城池ノ端城など。もちろん新発田城は外せません。
関連サイト 新発田重家の乱の頁もご覧下さい。

 

参考文献

「新発田市史」(新発田市)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ