菅谷城の考察 2004.04.02

菅谷城は、櫛形山脈の中の一峰、加治川村箱岩集落と新発田市菅谷集落を結ぶ箱岩峠の北1km、通称「古城山」にある。この櫛型山脈には鎌倉期の城氏のものと伝わる古城や、室町・戦国期の三浦和田氏・加地佐々木氏関連の城郭が点々と存在するが、菅谷城はその中でも城主・城暦が全く伝わっていない、謎の城のひとつであるが、その中でもひときわ異彩を放っている。位置的には箱岩峠を意識したものとも考えられるが、峠からはやや距離がある。箱岩峠との関連で言えば、峠の南側の高峰にある鳥屋峰城の方がむしろ相応しいようにも見える。ちなみに、峠を直接見下ろす高台には菅谷城との関連も想像される小規模な城郭である七曲城がある。

菅谷城平面図(左)、鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。

 

この菅谷城には戦国最後期のものと思われる高度な遺構が残る反面、個々の遺構の施工レベルは低く、急造のものであることは歴然としている。これらの「城主不明」「戦国後期の遺構」「施工レベルの低さ」を総合的に捉えて、この菅谷城の位置づけを推測してみたい。

まず、城主についてであるが、全く伝承はない。附近の有力な国人領主といえば、三浦和田氏惣領家である中条氏、および加地佐々木氏惣領家である加地氏の存在がすぐ浮かぶが、彼らの居城(慶長初期まで在城していた)を見ても、技法面での共通性は皆無に等しい。また、彼らの属城であれば一族・家臣などの名が残ってもおかしくない筈である。よって有力国人領主のものとは思われない。この附近で名前の伝わる勢力としては大天城の青木(青鬼)堅人などがいるが、詳細不明な上に活躍した時代も違う。そもそも、地侍クラスの居城としてはあまりにも規模が大きく構造も複雑である。

考えられる要素のひとつは、菅谷集落にある菅谷寺との関係である。菅谷城には明確な根古屋集落らしいものがない。城主が箱岩側に住んでいたか、菅谷側に住んでいたかによって性格が大きく分かれるところであるが、箱岩側ではないことは地形的に想像される。強いて根古屋集落との関連を考えれば、菅谷寺とその門前町集落を想定して築城されていると思える。従って、菅谷寺が自衛のために構築した山砦であることは考えられる。しかし、現在見られる遺構は寺院が自衛のために構築したようなものではなく、もっと差し迫った軍事的緊張を表すと考えられる。また、この地方の比較的旧い城郭には、幾段にも及ぶ桟敷段状の帯曲輪が見られるのが普通であるが、菅谷城ではV曲輪周辺を除き、そうした遺構は少ない。遺構間に時代差があまり感じられないことから、旧い城郭を改修したものではなく、戦国後期に一気に普請した可能性が高い。

遺構の中でもひときわ異彩を放つのがV曲輪南側の畝状阻塞である。これは緩傾斜に低い土塁を交互に並べたもので、以前来た時は草木に覆われよく確認できなかったが、今回ざっと見たところ12条が同心円状に配置されていた。しかしこの土塁の高さは30cmから50cmと極端に低く、子供がひと跨ぎで越えられる程度のものである。どれほどの効果があったものか疑問に思わなくもない。
主郭であるT曲輪は三方の尾根を堀切で断ち切っている。この城の最高部であり、最も広い曲輪でもあるが、削平は必ずしも丁寧ではない。これはこの城全体にいえることで、曲輪としての平面の加工レベルは実に粗雑なものだ。このT曲輪には当城で唯一の明瞭な虎口がある。これは土塁を用いた食い違い虎口であるが、やはり土塁は非常に低く、施工レベルも実に粗雑である。

堀切などの主要な遺構はすべてT曲輪を中心に、幾重にも設けられている。主尾根の南側には深さ4mほどの大堀切8、U曲輪を隔てて堀切7がある。堀切7には土橋が設けられ、東側は竪堀となっているが、西側は非常に曖昧で、なんとなくダラダラと消えてしまっている。さらにV曲輪群と畝状阻塞を隔て三重の堀4・5・6がある。ただし、ここでは便宜的に「堀」と記載しているが、その規模は実に小さく、堀の下方ではその高低差4-50cmほどしかない。これは尾根を分断する堀切としてではなく、一種の畝状阻塞と捉えた方が自然である。主尾根上にはさらに1・2・3の堀があるが、これは堀切というよりも尾根の鞍部の両側を削り落として、土橋状の細尾根を作り出しているものである。X曲輪は木々が切られて見晴らしがよく、ベンチなども置いてある。ここは菅谷城の出丸にあたるだろう。あるいは、この周辺の遺構を見ると、ここだけ菅谷城よりも前の世代の山城であった可能性もある。

T曲輪西側の支尾根との接点は三重の堀切9に、さらに二重堀切10、11、さらに尾根の先端部に堀切12を附属させた厳重なものである。このうち三重堀切10は主郭直下の腰曲輪とは5mほどの高低差があるが、三重の堀切内部は数10cmの高低差しかない。形式上は三重堀切、あるいは連続竪堀とも解釈できるが、実質的には畝状阻塞の一種と見たほうがいいだろう。

北側の尾根にも二重堀切13,14や、これも畝状阻塞のひとつと思われる堀15、さらにその外側にも二条の堀切16、17があるなど、厳重極まりない。これらの多数の堀切によって、T曲輪は実に厳重に防御されている。強い求心性を持つ縄張りといえる。

このように、平面プランでは様々な工夫を凝らし、求心性を持つ縄張りと戦国後期らしい遺構を残している反面、各防御施設や曲輪の施工レベルは極端に低く、居住性も感じられない。城主に関する伝承も不明な点と併せて推測すると、菅谷城は短期間使用された陣城・付け城の類ではないかと考えられる。その時期は天正年間、さらに絞り込めば新発田重家の反乱の時期ではないかと推測する。構築主体は色部氏・本庄氏を中心とした揚北北部の国人領主層プラス上杉直轄の部隊であろう。同時期の紛争としては「御館の乱」も考えられるが、この乱自体は比較的短期間に収束し、揚北では黒川氏などの一部の国人領主を除いて景勝に味方した勢力が大半を占めること、主戦場が主に府内・中郡だったことなどから、この場所に軍事的色彩の濃い城郭が構えられた可能性は低い。対して新発田重家の乱であるが、足掛け七年にわたった長期戦であった上、新発田勢は新発田城五十公野城を中心におびただしい臨時の城砦を構築している。これに対して景勝は当初、外敵の脅威などもあって積極的攻撃に転じることができず、色部長真・本庄繁長・築地資豊などの揚北勢を中心に、南からは山浦・上条らの上杉一門衆や蓼沼・山吉らの直臣衆が包囲網を構築し、持久戦となった。新発田重家の乱は付け城合戦でもあったのである。このうち揚北勢は地理的に北側からの包囲が主となり、築地氏の館がその補給基地になっていたようであるが、前線陣地がどこにあったかは明瞭に伝わっていない。菅谷城はそのひとつではないかと推測される。

遺構面では畝状阻塞は色部氏・本庄氏・竹俣氏などの城郭でも見られ、本庄氏同族の鮎川氏の大葉沢城などはその典型的なものである(鮎川氏自身は新発田重家に通じてしまっている)。施工レベルの低さは居住を意識していない証拠とも取れるし、主郭を中心とした求心的縄張りは強い軍事的緊張と、外敵から主郭のみを防御しようとしる意図が感じられる。立地については本来であれば南の尾根続きにある鳥屋峰城が最も相応しいとも思えるが、ここは加地氏の居城である加地城の峰続きであり、あまりに近接していることから敬遠されたか、あるいは加地氏が逸早く制圧してしまっていたかもしれない。

北東側から見た菅谷城周辺と新発田氏関連城郭(赤)。

※クリックすると拡大します(注1)。

新発田重家の乱においては、新発田城五十公野城加地城のトライアングル地帯を中心にその周囲で攻防が繰り広げられている。このトライアングルを中心に、おびただしい臨時の砦が設けられ、広大な湿地帯の存在もあって上杉景勝軍は移動の自由をかなり制約されたに違いない。これらの城砦を支えた糧道を確保したのはトライアングル地帯の東側である赤谷城などの山間部の城砦である。従って、景勝はなんとか軍勢を東側に展開する必要があったはずである。ところが主要な陸路である放生橋・八幡附近(現在のR290沿線)は新発田勢に強力に確保され、津川から赤谷方面は新発田勢を支える芦名氏によって押さえられている。残るは北東の坂井川上流の黒川氏領からの迂回ルートであるが、黒川氏はもともと御館の乱のときに景勝に逆らい、中条氏の鳥坂城を奪うなど、同族間の紛争の種を持っている。歴史的にも新発田氏との協調が多い。従って、黒川氏は重家の乱に際して、景勝に味方しながらも、おそらく景勝からは信用されていなかっただろうと思われる。そうなると、俄然櫛形山脈を横断する箱岩峠越えのルートが重要視される。築地氏の館を補給基地とした揚北勢は、塩津潟を舟で渡り、金山集落や箱岩集落から上陸して峠を越えることで、トライアングル地帯と赤谷城の間を分断する軍勢を送り込める。さらに直接的には加地城の間道を押さえて糧食の搬入を阻止することもできる。

菅谷城の役割は恐らく、箱岩峠を越えて攻囲軍が塩津潟方面から菅谷方面への移動を可能にすること、これによってトライアングル地帯と東側の山岳地帯の間の連絡を絶つこと、塩津潟沿岸の陸路を押さえること、箱岩峠からの加地城への糧食搬入を阻止すること、などにあったのであはないだろうか。


[2004.04.02]

注1:このコーナーでは、DAN杉本さん作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図(1/5万および1/20万)を使用した。また、地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)および数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平15総使、第342号)

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