城主の鮎川氏はおそらく全国的にはほとんど無名で、従ってこの大葉沢城もあまり知られてはいないと思いますが、戦国期の高度な築城法を駆使した大城郭で、規模・技巧面両面とも、こんな片田舎の一土豪が築城した、というのが不思議なほどの城郭です。三面川が織り成す広大な氾濫原に突き出した幅の狭い小丘陵全体を要塞化していて、まるで軍艦を思わせるような縄張を持っています。なんと言っても最大の見所は「連続畝状阻塞」(連珠塞)。この連続畝状阻塞は、横方向への敵の移動・展開を極端に制約し、その敵を狙って削崖の上から矢玉を浴びせるもの。急斜面と急斜面の間の緩斜面に、幅100m以上にも渡って50条以上の畝状の堀と土塁が連続する圧巻の遺構。しかも保存状態もよく、この全国的にも貴重な遺構を堪能することができます。
また城域の最先端、三重の堀切の先には船の「舳先」にあたる曲輪があり、その周囲はぐるりと空堀に囲まれています。この空堀や前述の三重の堀切、城域を真っ二つに断ち切る「大堀切」など、藪に埋もれてはいるものの非常に大掛かりな仕掛けの多い、技巧的な城郭です。とくに城域を真っ二つに断ち切る大堀切は、尾根上の移動を完全に不可能にし、「一城別郭構造」とでも呼べるような縄張になっています。
ではなぜ鮎川氏という小豪族がこれほど高度な技巧を凝らした城をつくったのでしょうか。そのキーワードは恐らく永禄十一(1568)年の本庄繁長の叛乱にあるのではないでしょうか。本庄繁長は当時、謙信に属する有力武将でしたが、武田氏の調略に応じて挙兵し本庄城に籠城、謙信に攻められます。謙信は三面川河口の高峰、下渡山などに陣城を構築して包囲しましたが、この本庄城を包囲する拠点の一つとして大拡張されたのではないでしょうか。本庄城には直線距離で4kmほどと非常に近く、大葉沢城の西南端、最も平地に突出した部分はまっすぐ本庄城の方角を向いています。実際鮎川氏は本庄氏と同族でありながら度々本庄氏と抗争を起こし、この繁長の謀叛に際しても鮎川盛長は謙信側の攻城軍に加わり、逆に本庄城から突出した城兵に攻められたりもしています。こうした緊張状態を背景に、もともとあった本拠地の古城に大々的な改修(これには謙信の意向や築城術も取り入れられているはず)を加え、本庄城に面した南西方向の防備を固めた結果、畝状阻塞や舳先周囲の堀、三重の堀切などの当時としては先進的で大掛かりな数々の施設が作られていったものと解釈できます。実際に新潟県内全域を見回してもこれほど技巧を凝らした城はそうそうなく、また現在残る遺構も戦国末期に近い時代の遺構であると考えられることも、その仮説を裏付けるものだと思うのですがいかがでしょうか。
【大葉沢城の構造】2004.01.23
大葉沢城は三面川の氾濫原に面し、東側から西側に突き出た細長い丘陵にある。城域は大きく「宮山」(標高80m、比高50m)と「寺山」(標高90m、比高60m)に分かれ、間に大堀切(堀切3、4)を設けて、一城別郭的な構成を持っている。この宮山の遺構群と寺山の遺構群はかなり技法も様式も違う。掛けている工数もかなり違いそうだ(宮山の方が数段手間がかかる)。これは築城・拡張時の意図の違いによるものなのだろうか、それとも年代差によるものなのだろうか。ちなみに「新潟県中世城館等分布調査報告書」では、寺山の遺構群は宮山の大葉沢城とは別に「寺山城」として記載されている。
さて、大葉沢城の遺構の最大の見所であり特徴であるのは、連続畝状阻塞「あ」である。越後の山城には連続竪堀や畝状阻塞が時折見られるが、ここまで周到なものはそうそうない。しかも、ほぼ完全に残っており、道さえわかれば良好な状態のものを見ることができる。この畝状阻塞は宮山の南側に面した帯曲輪上に高さ1mから2mの土塁と空堀を交互に並べたもので、その延長は100mを越え、きちんと数えてはいないが畝の数は50条以上あるそうである。この畝状阻塞の意図としては、比較的緩斜面である南側斜面の守りとして、主に敵兵の横方向への展開・移動を制約し、T、U、V曲輪の削崖の上から弓・鉄砲で集中射撃を与える、というものだと思うが、実際にどれくらいの実効性があるのかは多少疑問に思わないでもない。敵も阿呆ではないから、城方の思い通りに行動するとも思えない。あくまでも南面の緩斜面を補う意図であるのか、あるいは、敵に威圧感を与える示威的な目的があるのだろうか。そもそも、この帯曲輪まで敵兵が横一列に取り付くような状態では、かなり危険なレベルに達していると言えそうだ。
その他に特徴的なのは大規模な堀切1、3、4などで、堀切3、4はそれぞれ宮山と寺山の分断を為し、この大葉沢城の縄張り的な特徴である一城別郭構造を為している。面白いのは堀切1で、竪堀を伴う大規模な二重堀切と一段高い位置にある小規模な堀切で、三重堀切を形成している。この堀切は南側斜面で大規模な竪堀に変化している。この三重堀切の西側には、城内から突出した曲輪であるW曲輪がある。大葉沢城が永禄十一年の本庄城合戦の際に上杉軍の重要拠点として改修されただろうことを考えると、この部分は直接本庄城方面に面した最前線の曲輪であり、一種の突角陣地と見ることができる。本庄城からの攻撃には真っ先に標的になりそうな場所である。この曲輪の周囲は浅い横堀「い」で囲まれているが、北側斜面部は崩落が激しく明瞭ではない。
主郭は最高部であるT曲輪と考えられるが、実際には居住に耐えるスペースはない。雷神社の建つU曲輪が中枢と考えていいだろう。V曲輪は宮山と寺山を結ぶつなぎの陣地で、こちらもある種の突角陣地(という言い方が正しいかどうか疑問だが)と見られる。
寺山の遺構、X曲輪は広さはかなりあるものの、削平は十分ではなく、宮山と比べて防御も貧弱である。一応土塁が取り巻いてはいるものの、ただ広い曲輪があるのみで区画もされず、非常に心もとない。一部畝状阻塞はあるとのことであったが、そちらは確認できなかった。
城主の館は宮山の参道沿いの段丘上(Y曲輪)であると考えられるが、寺山の麓の普済寺附近も十分その要件は満たしている。一応ここではY曲輪を城主の館としてみた。ここから主郭部への通路はT、U曲輪直下で曲がりくねっており、頭上から常に攻撃を受ける位置にある。なかなか優れた構造である。
このように高度な遺構がよく残る大葉沢城であるが、唯一残念なのが宮山の北側斜面が大きく崩落していることである。これによって北側の遺構群はよくわからない場所も多い。神社参道添いなどはコンクリで護岸されてしまった場所もあり、やや景観にも違和感がある。まあ、自然の崩落なので仕方ないことではあるのだが・・・。