上杉謙信の急死後、その跡目を巡って上田長尾氏出身の上杉景勝と小田原北条氏出身の上杉三郎景虎の二人の養子が争った内乱「御館の乱」は、景勝が緒戦に春日山城の実城を占拠したことや武田勝頼との講和などで終始優勢であったかのように見られがちですが、実は乱の当初は景勝はかなりの苦境に陥っています。その最大の理由は兵力の絶対数不足とその分散でした。当時の景勝の書状を見ると「そちらの要請に応えて派遣できるだけの人数がない」とか「鉄砲衆を2名差し向ける」「そちらに派遣した鉄砲衆5人を返してくれ」といったようなちょっと情けない状況を示すもの、あるいは「欠落(脱走)」などの言葉が目立ちます。もともと景勝を積極的に支えていたのは自身の出身である上田衆(坂戸城下の家臣団)が主体であり、それ以外の上中越の有力国人衆(直江氏や安田氏)らはむしろ領主間や一族間の利害で動いたいたようなものでした。三郎景虎の方には謙信時代の馬回り衆が多数味方についたこともあり、景勝が自由に動かせる兵力には限りがありました。さらにその少ない兵力が各地の小城砦に分散し、あちこちで援兵を求められるに至っては、いちいちその要望にこたえるワケにも行かず、プライオリティの低い拠点は放棄して兵力を集中させる必要がありました。兵力の分散は各個撃破のリスクを負うことにもなるため、兵力の集中運用、とくに相対的に兵力不足に陥ったときの集中運用は兵法の鉄則でもあります。それを物語る書状として荒戸城の普請の完成に伴って「地下人も含めて駐屯させよ」とか「荒戸城、樺野沢城以外の小屋構えは破却せよ」などの指示が飛んでいます。そしてこの雁金城においてもその典型が見られます。
雁金城は花ヶ崎城とも呼ばれ、眼下に花ヶ崎街道を控えた陸上交通の要衝でもありました。花ヶ崎街道は春日山城下から米山へと向かう三国街道の本街道と、関東への直進経路であるいわゆる「上杉軍道」(のちの松之山街道)を結ぶ脇往還ともいえる街道ですが、この当時上杉軍道は景勝がほぼ掌握していたようで、花ヶ崎街道の防衛は相対的にプライオリティが下がっていたようです。そして景勝の書状には「兵力が少ないというのに各地に小要害を構えて少人数で分散させているのは如何なものか、九戸の要害は確保することが重要であるが、花ヶ崎城は無用である」と述べ、雁金城の放棄を指示しています。九戸というのは旧大潟町の浜沿いで、残念ながらここにどんな要害を構えていたかはわかりませんが、ここは前述の本街道に面しているだけでなく、景虎の有力与党である北条景広の本拠である北条城、「御館」の「第一ノ味方」とまで呼ばれた琵琶島城、一族が分裂していた柿崎氏の柿崎城・猿毛城などから春日山城へと通じる大動脈であり、小兵力でどちらかを重視するかといえばこの九戸を確保して敵の連絡網を分断する事の方が重要である、と判断したのでしょう。この雁金城は結果的に「無用の要害」として名を残すことになってしまいましたが、これらの書状によって景勝の意外なほどの苦境が見えてくるのは興味深い事実です。
雁金城は「大池公園」に面した標高140m、比高100mほどの山城です。ソレガシはてっきりこの雁金城も公園の一部だと思って油断していましたが、城域はほとんど道なき道に近いヤブです。場所がわかりにくいものの山の上の鉄塔保守用の通路があり、東側の先端あたりからとりあえずT、Uまで行けます。遺構そのものはどうもピリッとせず、堀切などもほとんど自然地形の鞍部に過ぎません。困ったことにこのお城は倒木が多い上、尾根が極端に狭いところもあり、なんとか二重の堀切4、5までは辿り着いたものの、その先の北側への突入は斜面を転げ落ちるリスクの大きさに無念ながら撤退しました。こちらにも遺構はあるようなので根性のある方はどうぞ。どうやら北側は別な登り口もあるようです。
それにしてもまあ景勝の言い方のなんとも可愛げの無いこと。ここを守っていた吉増氏らも決して山の上に逃げ隠れしていたわけではなく、良かれと思って立て籠もっていたんでしょうが、何のねぎらいもなしにクドクドと「そんなツマラン城は捨ててしまえ」みたいな言い方。「おうおう、ツマラン城で悪かったなぁ〜」と逆ギレしたくなるところですが、吉増氏らはこの後も栃尾城の押さえとして広瀬郷に派遣されるなど、思いやりの無い上司にフテ腐れることなく働いています。まあ景勝もそれだけ切羽詰っていたんでしょうが、この人らしいというかなんというか・・・。まあ、いつの世の中にもそんなヤツはいるし、えてしてそういう人の方がエラくなったりするんですがね・・・・。
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雁金城平面図(左)、鳥瞰図(右)
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[2007.01.17]