無用な城は放棄せよ

雁金城

かりがねじょう Karigane-Jo

別名:花ヶ崎城

新潟県上越市頚城区花ヶ崎〜浦川原区飯室

 

城の種別 山城

築城時期

不明

築城者

佐々木氏(?)

主要城主

佐々木氏(?)、吉益氏ら

遺構

曲輪、堀切、土橋

大池越しに見る雁金城遠景<<2005年10月09日>>

歴史

築城年代は明らかでない。上杉家の家臣、佐々木氏の居城だといい、後世の記録には上杉氏家臣の佐々権左兵衛門、飯川杢之丞が居城とした、とされる。

天正六(1578)年、上杉謙信が死去し、養子の景勝と三郎景虎が跡目争いを繰り広げた(御館の乱)。この乱の際には雁金城には吉増(益)伯耆守、佐藤平左衛門尉、長尾右京亮らが在城していたが、天正六(1578)年六月十七日の書状で景勝は「其地無人しゆ(衆)ニ候に、あそここゝニよふかい(要害)ともとり、人しゆ被差越候事、如何ニ候、くど(九戸)のよふかいハ従其元成共かゝへ可然候、花か崎(雁金城)ハいらさる事ニ候条、無人しゆニて、小よふかいとも相かゝへ候も如何ニ候間、花か崎は無用ニ候、くと嶋ヲハもたせしかるへく候」と、無人数でいくつも要害を抱えることをやめ、花ヶ崎城(雁金城)を放棄して九戸嶋の要害を確保するよう厳命している。その後雁金城は放棄されて廃城になったものと思われる。

上杉謙信の急死後、その跡目を巡って上田長尾氏出身の上杉景勝と小田原北条氏出身の上杉三郎景虎の二人の養子が争った内乱「御館の乱」は、景勝が緒戦に春日山城の実城を占拠したことや武田勝頼との講和などで終始優勢であったかのように見られがちですが、実は乱の当初は景勝はかなりの苦境に陥っています。その最大の理由は兵力の絶対数不足とその分散でした。当時の景勝の書状を見ると「そちらの要請に応えて派遣できるだけの人数がない」とか「鉄砲衆を2名差し向ける」「そちらに派遣した鉄砲衆5人を返してくれ」といったようなちょっと情けない状況を示すもの、あるいは「欠落(脱走)」などの言葉が目立ちます。もともと景勝を積極的に支えていたのは自身の出身である上田衆(坂戸城下の家臣団)が主体であり、それ以外の上中越の有力国人衆(直江氏や安田氏)らはむしろ領主間や一族間の利害で動いたいたようなものでした。三郎景虎の方には謙信時代の馬回り衆が多数味方についたこともあり、景勝が自由に動かせる兵力には限りがありました。さらにその少ない兵力が各地の小城砦に分散し、あちこちで援兵を求められるに至っては、いちいちその要望にこたえるワケにも行かず、プライオリティの低い拠点は放棄して兵力を集中させる必要がありました。兵力の分散は各個撃破のリスクを負うことにもなるため、兵力の集中運用、とくに相対的に兵力不足に陥ったときの集中運用は兵法の鉄則でもあります。それを物語る書状として荒戸城の普請の完成に伴って「地下人も含めて駐屯させよ」とか「荒戸城樺野沢城以外の小屋構えは破却せよ」などの指示が飛んでいます。そしてこの雁金城においてもその典型が見られます。

雁金城花ヶ崎城とも呼ばれ、眼下に花ヶ崎街道を控えた陸上交通の要衝でもありました。花ヶ崎街道は春日山城下から米山へと向かう三国街道の本街道と、関東への直進経路であるいわゆる「上杉軍道」(のちの松之山街道)を結ぶ脇往還ともいえる街道ですが、この当時上杉軍道は景勝がほぼ掌握していたようで、花ヶ崎街道の防衛は相対的にプライオリティが下がっていたようです。そして景勝の書状には「兵力が少ないというのに各地に小要害を構えて少人数で分散させているのは如何なものか、九戸の要害は確保することが重要であるが、花ヶ崎城は無用である」と述べ、雁金城の放棄を指示しています。九戸というのは旧大潟町の浜沿いで、残念ながらここにどんな要害を構えていたかはわかりませんが、ここは前述の本街道に面しているだけでなく、景虎の有力与党である北条景広の本拠である北条城、「御館」の「第一ノ味方」とまで呼ばれた琵琶島城、一族が分裂していた柿崎氏の柿崎城・猿毛城などから春日山城へと通じる大動脈であり、小兵力でどちらかを重視するかといえばこの九戸を確保して敵の連絡網を分断する事の方が重要である、と判断したのでしょう。この雁金城は結果的に「無用の要害」として名を残すことになってしまいましたが、これらの書状によって景勝の意外なほどの苦境が見えてくるのは興味深い事実です。

雁金城は「大池公園」に面した標高140m、比高100mほどの山城です。ソレガシはてっきりこの雁金城も公園の一部だと思って油断していましたが、城域はほとんど道なき道に近いヤブです。場所がわかりにくいものの山の上の鉄塔保守用の通路があり、東側の先端あたりからとりあえずT、Uまで行けます。遺構そのものはどうもピリッとせず、堀切などもほとんど自然地形の鞍部に過ぎません。困ったことにこのお城は倒木が多い上、尾根が極端に狭いところもあり、なんとか二重の堀切4、5までは辿り着いたものの、その先の北側への突入は斜面を転げ落ちるリスクの大きさに無念ながら撤退しました。こちらにも遺構はあるようなので根性のある方はどうぞ。どうやら北側は別な登り口もあるようです。

それにしてもまあ景勝の言い方のなんとも可愛げの無いこと。ここを守っていた吉増氏らも決して山の上に逃げ隠れしていたわけではなく、良かれと思って立て籠もっていたんでしょうが、何のねぎらいもなしにクドクドと「そんなツマラン城は捨ててしまえ」みたいな言い方。「おうおう、ツマラン城で悪かったなぁ〜」と逆ギレしたくなるところですが、吉増氏らはこの後も栃尾城の押さえとして広瀬郷に派遣されるなど、思いやりの無い上司にフテ腐れることなく働いています。まあ景勝もそれだけ切羽詰っていたんでしょうが、この人らしいというかなんというか・・・。まあ、いつの世の中にもそんなヤツはいるし、えてしてそういう人の方がエラくなったりするんですがね・・・・。

雁金城平面図(左)、鳥瞰図(右)

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[2007.01.17]

大池から望む雁金城。比高100mあまりとは思えぬほど堂々とした姿ですが、遺構はちとショボイです。この大池と小池の間に雁金城跡の解説板があります。 公園の一部どころか、道なき道を直登して辿りついたU曲輪。ここはT曲輪とU曲輪で谷を抱え込むような、ちょっと面白い地形になっています。
一応三角点のあるT曲輪を主郭としましたが、どうにもピリッとしません。一応山の上には鉄塔保守用の道が辛うじてありました。 一応最大級の堀2。といってもほとんど尾根の高低差を利用しただけの自然地形だのみ。それにしても倒木だらけで歩きにくい・・・。
気のせいのような堀切3、っていうかこんな堀切じゃ何の役にも立たんぞ!これじゃ景勝に無用の要害扱いされるのも仕方ないか・・・。 V曲輪、ここがもしかたら主郭なのかもしれません。それにしても大した人数は籠れません。
堀4、5の連続堀切まで進んだものの、尾根に被さる倒木を越えれずに敢え無く撤退。この北側にも曲輪や堀などがあったらしい。む、無念・・・。 帰り道は鉄塔保守道沿いに南東へ降りる。と、割とハッキリした堀1と土橋が。やっとマトモな遺構を見つけた!
堀1はごく浅いものですが、半円状に長く山の斜面を伸びており、横堀みたいです。 大池公園に「とりで」があるとのことで行ってみたら、コレだった。うむむ、シテヤラレタリ。
大池に浮かぶ小島「ふるかんど」は館跡という。そういえばこの橋(観音橋)が掛かっている場所も堀に見えるような・・・。 「ふるかんど」には目ぼしい遺構はなかったものの、立地的には居館であったとしても納得のいく場所ではあります。

 

交通アクセス

北陸自動車道「上越」ICまたは「柿崎」IC車20分。

北越急行ほくほく線「大池憩いの森」駅徒歩1時間。

周辺地情報 上杉軍道沿いの直峰城は必見、少々地味ですが虫川城なんてのもあります。初めての方は春日山城も忘れずに。
関連サイト  

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉家御書集成U」(上越市史中世史部会)

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

「春日山城とその支城群」(大塚直吉遺作集出版委員会)

現地解説板

参考サイト   

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