謙信の本庄攻め陣城と伝わる

下渡城

げどじょう Gedo-Jo

別名:下渡山城

新潟県村上市下渡

城の種別

山城

築城時期

永禄十一(1568)年(?)

築城者

上杉謙信(?)

主要城主

本庄氏(?)、上杉謙信(?)

遺構

曲輪(?)

下渡城主郭から村上城方面<<2003年05月02日>>

歴史

永禄十一(1568)年五月、武田信玄の調略で謙信に叛旗を翻した本庄城主・本庄繁長の攻囲のため、上杉謙信が築城したとされるが、貞治年間(1362-68)に本庄孫次郎が猿沢城に在城し、その子孫が下渡城、里本庄、松尾山へ本拠を移したという記録もある。

本庄城主・本庄繁長は上杉謙信配下の勇将として知られていたが、川中島合戦や関東出陣の際の戦功に恩賞が無い事を不満に思っていた。一説に、川中島合戦での謙信の采配を非難し、謙信に疎まれたともいわれる。この不満を知った武田信玄の調略により、永禄十一(1568)年、繁長は近隣の平林城主・色部勝長、黒川城主・黒川実氏、鳥坂城主・中条藤資らを誘って謙信に叛旗を翻したが、中条藤資が謙信にこれを報じ、黒川・色部らにも断られた。謙信は十月二十日、春日山城を発ち、陣容を整えた後、十一月七日から本庄城攻撃を始めた。この攻撃に先立って、謙信は先遣の将、直江大和守、行方六右衛門に宛てて、下渡城庄巌城(笹平城)を昼夜兼行で完成させるよう厳命している。信玄の後詰めがないことを悟った繁長は伊達輝宗、芦名盛氏らの仲介で翌永禄十二(1569)年三月、嫡子顕長を謙信に人質として差し出し降伏した。

村上市の市街地北方、三面川に架かる下渡橋の北岸に、三角形の高峰がひときわ目立って聳えています。村上城の本丸からも、正面にひときわ目立って見えます。この山が下渡山(標高237.8m)です。ここは、本庄繁長が武田の調略に応じて謙信に叛いた際、謙信によって取り立てられた陣城のひとつといわれています。あるいは、謙信の本陣であった、とか、もともと本庄氏の支城であった、という話もあります。

本庄城(のちの村上城)は完全な独立丘で、かつ周囲に本庄城を俯瞰できる適地が殆どないため、城攻めの際は寄せ手は陣地選びに苦労したことと思います。この下渡城はほとんど唯一、本庄城を直接俯瞰できる場所であり、謙信の本庄城包囲においても、何らかの役割を持ったであろう事は想像できます。

しかし、その地理的条件と遺構面の双方で、大きく疑問を感じざるを得ません。

まず地理的条件では、本庄城が三面川の南岸の独立丘に立地するのに対し、下渡城は三面川の北岸にあたり、かつ本庄城攻囲軍は越後府中のある南側から進軍する形になります。つまり、攻囲軍が下渡城に入城するためには、必ず本庄城の脇をすり抜けて、敵の目の前で三面川の渡河を行う必要があるのです。三面川は決して小さな川ではなく、水量・水勢ともに豊かで、かつ河口に近い下渡附近では川幅もそれなりに広いため、敵前渡河はかなりのリスクを伴います。下渡城の立地からすると、陣を布くにも討って出て攻めるにも、あるいは退くにも、いちいち渡河を繰り返す必要があります。これは攻められる側の籠城作戦であれば有効かもしれませんが、敵城を攻める攻城側としては、あまり上策とはいえません。

遺構面ではさらに疑問が募ります。急峻な山路を登って頂上に立つと、なるほど本庄城は眼下に横たわり、敵の動きは一目でわかりますが、全くといっていいほど防御遺構が見当たりません。当然堀切等で断ち切られているであろう尾根筋も堀切った痕跡もなく、土塁や石塁等も全くありません。曲輪も、はっきりと削平されているとは言い難い、ほぼ自然地形を残したものです。「日本城郭大系」(「その他の城郭一覧」の頁に所収)では、「郭・堀が残存」とありますが、曲輪も曖昧、堀切は三方の尾根を歩いた限り見当たらず、三面川に面した急斜面にも防御遺構があるとは思えないことから、現状では限りなく「遺構なし」に近い状態です。急峻な高峰であるため、後世に改変されたとも考えにくく、やはり大掛かりな普請は行われなかった、と見るべきかもしれません。また、地形的にも山頂には大軍が駐屯できるスペースは殆どなく、山腹も急斜面であるため布陣は不可能、総大将やその旗本たちが陣取る場所としてはいかにも不適格な印象を持ちました。

この下渡城が機能したとすれば、本陣としてではなく、ごく小規模な部隊を駐屯させて、見張や兵糧遮断などの、限定された目的で一時的に取り立てられただけではないか、という気がします。あるいは、もし陣所として取り立てられたとすれば、それは下渡山山上ではなく、現在の下渡集落とその周辺の段丘上ではなかったか、下渡山はその付属施設として、狼煙台や物見が置かれておいた、という程度ではないかという気がしています。

以上、資料が少ない中での推論ではありますが、今後資料をかき集めて、検証してみたいと思ってます。

下渡城への登山口は下渡集落の奥まった場所にあり、山頂まで堀底状の登山道が整備されています。この登山道、尾根直登の急斜面の上、石がゴロゴロ転がっていて、かなり歩きづらいです。30分弱で山頂に出ますが、ここから見る村上市街地、正面に見える村上城本庄城)の姿は最高です。一応周囲を歩いてみた感触では、前述のように遺構らしい遺構はほとんど見つけることができませんでしたが、この景色だけでも登ってみる価値は十分にありました。

冬の村上城本丸から見る下渡山。三面川の対岸に三角形に聳えるこの山は、ここからの景色でも際立って目立っています。

三面川に架かる下渡橋から見上げる。この川を渡って行ったり来たり・・・。防御としては優れていても、陣城としてはちょっとどうかなぁ、と思う立地ですな。

下渡山登山口。下渡集落の中から北に向かう林道の途中にありますが、場所はとってもわかりにくい。道しるべが欲しいッス。

尾根直登、岩石ゴロゴロの歩きにくい道。堀底状に見えますが、単なる登山道のための改変でしょう。

途中の平坦な細尾根。当然、防御を考えれば堀切っていてしかるべき場所ですが、そのような痕跡はどこにもありません。ホントにお城?

標高237.8mの山頂から。気温は高めだったけど、ここの風は気持ちいいです。景色も最高。

山頂からの絶景。手前を流れる三面川を挟んで、村上城の山容がよく見えます。右手の光の海は日本海。写真では霞んで見えませんが、飯豊山系の山々、平林城などが見えました。

どこから見ても絵になる村上城、高いところから見るのも格別。石垣もはっきり見えます。本庄城包囲の際には、見張りの役割としては申し分ない立地です。

主郭と、主郭の一段下の腰曲輪、とも思いましたが、削平は甘く、ほとんど自然地形じゃないか、と思います。ホントにお城だったのかなぁ!?

念のため東側の急斜面を少し降りてみました。やや平坦な場所もあり、帯曲輪?とも考えられますが、判然としません。

諦めきれず、童子山へのヤブ道も尾根筋まで降りてきましたが、遺構らしきものはまったくなし。「堀が残る」って、どこのことを指しているのかなぁ?

三面川北岸の段丘上から見た村上城(左手)と下渡城の山裾(右手)。下渡山直下の下渡集落は段丘上にあり、ここに陣所があってもおかしくないとは思います。 これは大葉沢城下から見た村上城(左手)と下渡城。

 

 

交通アクセス

日本海東北道「中条」ICより車60分。

JR羽越線「村上」駅よりバスまたは徒歩60分。

周辺地情報

やはり村上城は必須。東側山麓には本庄城時代の遺構もあります。近隣では大葉沢城平林城がオススメです。

関連サイト

 

 
参考文献 「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)
参考サイト 越の山路

 

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