村上市の市街地北方、三面川に架かる下渡橋の北岸に、三角形の高峰がひときわ目立って聳えています。村上城の本丸からも、正面にひときわ目立って見えます。この山が下渡山(標高237.8m)です。ここは、本庄繁長が武田の調略に応じて謙信に叛いた際、謙信によって取り立てられた陣城のひとつといわれています。あるいは、謙信の本陣であった、とか、もともと本庄氏の支城であった、という話もあります。
本庄城(のちの村上城)は完全な独立丘で、かつ周囲に本庄城を俯瞰できる適地が殆どないため、城攻めの際は寄せ手は陣地選びに苦労したことと思います。この下渡城はほとんど唯一、本庄城を直接俯瞰できる場所であり、謙信の本庄城包囲においても、何らかの役割を持ったであろう事は想像できます。
しかし、その地理的条件と遺構面の双方で、大きく疑問を感じざるを得ません。
まず地理的条件では、本庄城が三面川の南岸の独立丘に立地するのに対し、下渡城は三面川の北岸にあたり、かつ本庄城攻囲軍は越後府中のある南側から進軍する形になります。つまり、攻囲軍が下渡城に入城するためには、必ず本庄城の脇をすり抜けて、敵の目の前で三面川の渡河を行う必要があるのです。三面川は決して小さな川ではなく、水量・水勢ともに豊かで、かつ河口に近い下渡附近では川幅もそれなりに広いため、敵前渡河はかなりのリスクを伴います。下渡城の立地からすると、陣を布くにも討って出て攻めるにも、あるいは退くにも、いちいち渡河を繰り返す必要があります。これは攻められる側の籠城作戦であれば有効かもしれませんが、敵城を攻める攻城側としては、あまり上策とはいえません。
遺構面ではさらに疑問が募ります。急峻な山路を登って頂上に立つと、なるほど本庄城は眼下に横たわり、敵の動きは一目でわかりますが、全くといっていいほど防御遺構が見当たりません。当然堀切等で断ち切られているであろう尾根筋も堀切った痕跡もなく、土塁や石塁等も全くありません。曲輪も、はっきりと削平されているとは言い難い、ほぼ自然地形を残したものです。「日本城郭大系」(「その他の城郭一覧」の頁に所収)では、「郭・堀が残存」とありますが、曲輪も曖昧、堀切は三方の尾根を歩いた限り見当たらず、三面川に面した急斜面にも防御遺構があるとは思えないことから、現状では限りなく「遺構なし」に近い状態です。急峻な高峰であるため、後世に改変されたとも考えにくく、やはり大掛かりな普請は行われなかった、と見るべきかもしれません。また、地形的にも山頂には大軍が駐屯できるスペースは殆どなく、山腹も急斜面であるため布陣は不可能、総大将やその旗本たちが陣取る場所としてはいかにも不適格な印象を持ちました。
この下渡城が機能したとすれば、本陣としてではなく、ごく小規模な部隊を駐屯させて、見張や兵糧遮断などの、限定された目的で一時的に取り立てられただけではないか、という気がします。あるいは、もし陣所として取り立てられたとすれば、それは下渡山山上ではなく、現在の下渡集落とその周辺の段丘上ではなかったか、下渡山はその付属施設として、狼煙台や物見が置かれておいた、という程度ではないかという気がしています。
以上、資料が少ない中での推論ではありますが、今後資料をかき集めて、検証してみたいと思ってます。
下渡城への登山口は下渡集落の奥まった場所にあり、山頂まで堀底状の登山道が整備されています。この登山道、尾根直登の急斜面の上、石がゴロゴロ転がっていて、かなり歩きづらいです。30分弱で山頂に出ますが、ここから見る村上市街地、正面に見える村上城(本庄城)の姿は最高です。一応周囲を歩いてみた感触では、前述のように遺構らしい遺構はほとんど見つけることができませんでしたが、この景色だけでも登ってみる価値は十分にありました。