笹平城は「本庄繁長の乱」にあたり、謙信勢が築いた向城のひとつで、謙信はその書状で下渡城とともにこの笹平城(庄厳城)の普請を昼夜兼行で完成させるよう命じています。下渡城の方はあまり遺構らしい遺構もなく、どの程度の普請があったのか疑問もありますが、この笹平城は逆に「普請の嵐」とでもいいますか、とにかく長大な峯に延々と普請の痕跡が残る、非常に規模の大きいお城です。
笹平城が築かれた背景には、本庄繁長によって鮎川氏の大葉沢城が奪われたことがあります。笹平城はこの大葉沢城奪還への対の城であり、本庄氏の支城間の連絡と、山間の大栗田方面からの糧道を遮断する任務も負っていました。大葉沢城からは3kmの近接した距離にあるため、普請も厳重極まりないものになっています。本庄勢も黙って見過ごしにはせず、山深い大栗田では両軍の戦闘があり、数百の荷駄が谷底に落とされたといいます。そうした緊張状態をよく反映したお城であるといえます。
笹平城は山頂付近がわりと平坦な山で、それほど要害性が高いようには見えませんが、直下には水流の急な長津川が天然の外堀を形成し、U字型の尾根に囲まれた中には深い侵食谷を持つなど、複雑な自然地形の上に成り立っています。軍事的な要求によって築かれたお城であるため、城下集落との関連性は薄く、かなり山奥に築かれたお城という印象です。そのうえ尾根は幾筋にも分岐し、不慣れな敵兵は主要部に辿り着くことすらできずに撃滅されてしまうでしょう。
ここは以前、雨順斎全長殿を呼び出して攻めてみたのですが、残雪が多くて道の通行が困難だったため、附近の尾根伝いに攻めようとして結局失敗、雪解けで増水した沢沿いに下山を余儀なくされるという、今考えればかなり無謀なことをして敗退した場所でもあります。今回、越後ツアーと称して関東のツワモノどもと共に越後のお城を攻めまくったのですが、幸いなことに直前に笹平城に詳しいKITA殿(「揚北伝説」管理人)と知り合うことができて、当日はしっかりご案内を頂きました。KITA殿がいなかったら、きっと山の中で道に迷ってオシマイだったでしょう。本当にありがとうございました。それにしてもこの大人数(9名)は恐らく廃城以来最高の入城者数だったのでは(笑)。
遺構面の特徴としては、まずウネウネ系の遺構が多用されていることが挙げられます。こうしたウネウネは大葉沢城に最も見事なものが見られますが、この笹平城もなかなか見事なものです。ただ、場所によってはものすごいヤブコギが必須です。最大のみどころはやはり戦闘の生々しさを今に伝える「投石陣地」の存在でしょう。こういうものが存在するとは書籍などで見たり聞いたりしていましたが、実際に見るのははじめてでした。石は直径10cmから20cmくらいの川原石が主体で、小さな塚のように寄り固まっています。おそらく直下の川原から運び上げたものなのでしょう。投石陣地は4箇所あり(実際にはもう一箇所あるらしい)、いずれも通路を見下ろす切岸の上や急峻な尾根を登りきったところなどに設けられており、頭上からこんな石を落とされたらまず先には進めない、という、絶妙な位置にあります。もちろん、堀切とか竪堀とかも素晴らしいのですが、この投石陣地の生々しさ、ジワジワと滲んでくるような恐怖感は格別です。
ちょっと注意して欲しいのが、かなり奥深い山の中であることと、道に迷いやすいことです。一応山麓からの道(公会堂附近から木橋を渡る)はありますが、尾根が何度も直行して進む方向に迷いやすく、道も途中で途切れて終わってしまいます。落ちたら死ぬ系の場所はあまりありませんが、下手に道を逸れると水流の激しい沢に阻まれて進退に苦労することになりかねません。どうもクマさんもいそうな気配なのでこちらも注意が必要です。とにかく地形図を必ず携行すること、初めての方は一人歩きをしないこと、水流の激しい沢を無理に越えないこと、これらに十分注意してほしいところです。
【笹平城の構造】
|
笹平城平面図(左)、鳥瞰図(右)
※クリックすると拡大します。 |
笹平城は笹平集落の北東1kmの深い山の中にある。笹平城の立地する山(将軍嶺▲227m)は西に向かって開口するU字型の尾根が連なっているが、笹平城の城郭遺構はこの尾根上に800mにも渡って施工されている。直下には長津川が流れ、天然の外堀を形成しているが、その分城下集落との関連は薄く見える。 笹平城の中心部分はT〜Vの曲輪群であろう。主郭はTと看做したが、尾根上の曲輪はあまり標高差が無く、どれが主郭か決め難い。また、周囲の腰曲輪などの構造を見ると、V曲輪がもともとの主郭で、それ以外の尾根上の曲輪はあとから施工されて城域に取り込まれたようにも見える。一応ここでは最高所にあたるTを主郭と看做す。 西側に伸びる尾根にも数段の削平地(W、X曲輪等)が配置され、その先端部にはこの城郭の特徴的な遺構である畝状阻塞Aがある。この畝状阻塞は尾根上に横方向に土塁を数条、並べて配置したものであるが、面白いのは尾根の両脇の山腹に、幅50cmほどの細い溝状の連続竪堀を伴っていることである。これは竪堀とはいえ、非常に幅の狭いもので、どういう効果を狙ったのか今ひとつ不明である。また、尾根上の畝状阻塞の配置と全く無関係に配置されているところも変わっている。連続竪堀はこの尾根と直行する尾根にもあり、こちらは幅1.5mほどの竪堀が6条ほど連続している。畝状の遺構はV曲輪からずっと下がった尾根上にも存在する(畝状阻塞B)。この方面は非常に急斜面ではあるが、城下集落からは最短経路にあたるため防備を厳重にしたのであろう。これらの畝状阻塞や連続竪堀などの連続遺構はこの城の著しい特徴のひとつである。 さらにこの笹平城で注目すべき遺構は、投石陣地が非常に良好な状態で残っていることである(投石陣地1-4)。石礫は直径20cm前後の川原石が多い。投げる、というよりは頭上から落とす方ことを狙ったものだろう。このうち投石陣地1,2は大手道を見下ろす切岸の上にあり、大手道を進む敵はこの頭上攻撃から逃れられない。投石陣地3は南側の急峻な尾根続きの上段にあり、こちらも急斜面と石礫をかわさない限りはV曲輪に辿り着けない。投石陣地4は東側の帯曲輪にあり、直接的にどこを狙ったのかは今ひとつわからないが、おそらく竪堀 をよじ登る敵に対応したものであろう。複数の投石陣地が良好に残るという意味では、非常に貴重な遺跡である。 この広大な城域、かつ高度な技巧は一在地土豪に過ぎない鮎川氏や三瀦氏によるものでないことは明白である。古文書でも語られるように、上杉謙信が命じて昼夜兼行で普請をさせている。おそらく施工にあたっては、上杉氏の旗本勢が事実上の主体となったことであろう。そういった意味では永禄末期の上杉氏の技巧や築城思想が明白に反映されているともいえる。 本庄繁長の乱の収束の後は三瀦氏の手を経て鮎川氏の持城になったようであるが、三瀦氏にしても鮎川氏にしても、これだけ巨大な城郭、しかも交通の便の悪い山間の城郭を維持する意味は乏しかったであろう。経済的負担も馬鹿にならない筈である。おそらく、限りなく放棄に近い状態であったろうと思う。そういう意味では「本庄繁長の乱」の短期間のみ必要とされ、あとは限りなく「お荷物」になってしまった、そんな城郭ではないかと思う。
[2004.06.27] |