生涯で十三回とも、十五回とも云われる上杉謙信の関東進攻、いわゆる「越山」にあたり、三国峠越えは主要な軍道として重要視されました。三国峠は日本海側と太平洋側を隔てる、日本の脊梁山脈を越える峠ですが、峠そのものは標高1500mほど、代表的な高峰である谷川岳でも2000m弱ほどしかありません。しかし、雪国越後と関東との国境に聳える山々は気候が非常に変わりやすく、その難しさは3000m級の山に匹敵する、とも云われます。現代ですら、毎年のように谷川岳周辺での遭難事故が絶えないことを思えば、謙信の時代、それも積雪が5mを超える真冬にこの峠を越えるということがいかに苦難に満ちたものであったか、想像を絶するものがあります。おそらく、多くの兵卒が凍傷に斃れ、あるいは滑落したり、雪崩に巻き込まれたりしてその命を失ったことでしょう。
浅貝寄居城はその三国峠のまさに直前、越後での最後の一夜を過ごすために謙信によって設けられた、関東出撃への宿営所です。この「寄居」という言葉の響きからも分かるように、攻防戦を繰り広げるような城砦ではなく、普段は数十人の足軽などを交代で置いて守らせ、いざ謙信が関東に出撃する際には、三国峠の手前で隊列を整え、一夜を過ごして峠越えに備えるという、「旅宿」とでもいうべきものでした。この浅貝という集落は、今でこそ苗場などのスキーリゾート地になっていて、幅の広い国道十七号が貫通し、国道沿いにはホテルやリゾート施設、お店などが立ち並んでいますが、もともとは謙信がこの三国越えのルートを確保するために、計画的に配置された集落であるという説もあります。こうした集落は上杉軍道沿いに他にもあり、それぞれの集落自体が「寄居」的な機能を持っていたと思われます。もっとも、謙信が一番盛んに関東に出撃していた永禄年間にはまだ城館と呼べるものは存在せず、「越相和睦」後の武田軍の動きに対処すべく、上田衆の栗林氏らに命じて急遽取り立てた、ということですから、国境防衛の意味も多少はあったでしょう。
浅貝寄居城はもともとは段丘上に三郭程度が並んでいたようですが、現在はスキーリゾート地の真ん中に、方20mほどの主郭のみがポツンと残っています。場所はちょっとわかりにくいですが、国道十七号沿いの「ホテルムサシ」裏手、ダイヤパレスのリゾートマンションの駐車場脇になります。一枚の写真に全景が収まってしまうほどの狭い範囲ではありますが、これでも、何も残っていないよりははるかにマシで、辿り着いた時には嬉しくなりました。一応、主郭には土塁や、周囲の堀跡の一部が残っています。主郭、といってもちょっと大き目の小屋一軒分くらいの広さしかないのですが、そこがまた「寝るだけの場所」っぽくてイイじゃないですか。「謙信はここで酒呑んで、大イビキかいて寝てたのか」なんて考えると、楽しいではありませんか!
[2004.06.02]